明里のジレンマと作家の誕生 『秒速5センチメートル』

大雪の岩舟で待ち続けたことで明里には造形上のジレンマが誕生した、と見てよい。惨劇は、タカキ君が明里の真意を誤解して始まったのだが、その思い込みに咎を負わせるのは酷なのである。待ち続けた彼女に好意を確信するのは自然であって、タカキ君にそう思わせてしまった明里にむしろ事態の責任があるのではないか。

基本的は構図は『男はつらいよ 望郷篇』(1970)とかわらない。寅は例のごとくマドンナを誤解する。自分に好意があると確信してしまう。しかし望郷篇では誤解した寅よりも誤解させたマドンナに非難が向けられた。源公までも好意を確信して真顔で寅を祝福するのだ。寅の思い込みではない。好意は第三者によって客観化され確証されている。

後年『男はつらいよ』は、思わせぶりでマドンナ問題と正面から取り組むことになるが、この時期ではマドンナはただの残虐なヒロインに終始している。

秒速の明里も同様の課題を負う。タカキ君に未練はないはずなのに、なぜ雪の岩舟で待ち続けたのか。案の定、タカキ君を誤解させてしまい、これでは明里がむらっ気の残忍な娘になりかねない。明里のジレンマである。

作劇の必要性からいえば、タカキ君も受け手も明里を誤解せねばならない。騙されねばならない。が、騙す明里で終わってしまえば、受け手の彼女への好意は剥落する。ここに作劇の課題がある。タカキ君を誤解させておきながら、かつ明里を残酷なマドンナにしない。如何にすればこれは可能か。

新宿を発った段階では明里もタカキ君も意図を共有していた。本編だけではわからないが、ふたりとも別れを告げるつもりでいた。しかし車中で思いに亀裂が生じる。きっかけとなるのは「どうか家に帰っていてくれ」である。この台詞によって以下のような前提が暗に刷り込まれる。もし明里が待っていたら、明里の好意は確証される。ところが当の明里にとっては、降雪によって「明里が待っている」が正反対の意味を持ち始める。会わずに終わったら告別が中途半端になる。確実に終わらせるためには自分は待たなければならない。雪がふたりの同意を覆したのである。


秒速は強烈な自己客観視にようやく達した男の物語である。そもそもなぜ作者は、明里の好意をタカキ君と受け手に錯覚させたいのか。誤解させることで、何を提示したいのか。答えは最終章、岩舟を発った車中で行う明里の回想にある。あの一夜は、今そこにある危機としてタカキ君を呪縛し続けている。それを彼女は「昔の夢」と評する。もう終わったことなのである。

失恋のもたらす身を裂くような自己客観視を体感させる。これが作者の目的である。われわれはあの場面で新海誠という作家の始原に立ち会っているのだ。

自分を客観視できなければ作家は誕生しない。超弩級ナルシストで思い込みの激しいこの男にとって、自己の客観視ほど困難なものはない。しかし、思い込みが激しいからこそ、一旦客観視に至れば、それは血反吐の出るような体感となって還ってくるだろう。

最終話は踏切で始まり踏切で終わる。が、両者には微妙な差異がある。最後の踏切でタカキ君がすれ違った女性は明里である。すれ違う際に明里の顔がインサートされ、しかも彼女はタカキ君に気づいた素振りをする。冒頭の女はより匿名的である。インサートはされるも顔が見えない。気づいた様子もない。なぜ匿名化するのか。冒頭の踏切で明里は、作者に強烈な客観視をもたらしてきた詩神たちの総体として抽象化されている。あれは、いままで自分を袖にしてきた女たちの総称に他ならないのだ。