『孤狼の血 LEVEL2』 (2021)

中村梅雀写ルンですが大写しになる。説明したい映画だなと思う。松坂が梅雀宅に招かれると、絵に描いたような団欒がある。梅雀に露骨な死亡フラグが立つ。これもまた説明癖だが効用もある。予想される梅雀の遭難が話を締める。


時代と言語の制約で冒頭が息苦しい。ここはバブルだと受け手に納得させるために、語りの資源が浪費される。方言が演技の幅を狭めている。ここから話を普遍性に持っていくのは鈴木亮平のサイコ物と村上虹郎のアンダーカバー物である。サイコに社会はどう対応するのか。この問いが普遍化の契機となり、かつサイコとアンダーカバーが互いを引き立て合う。サイコがサイコであるほどアンダーカバーが緊張する。もっともこのままではホラー映画になってしまうから、格調を維持するために相補関係は変質せねばならない。鈴木が村上を籠絡にかかり、村上はその感化に混乱する。これもまた説明癖である。サイコを説明せずにはいられないのだ。結果はやはり痛し痒しで、鈴木はサイコではなくなるから緊張は失われ、アンダーカバー物は事実上終了する。他方、サイコの不快は去り、間接的に懲悪が達成される。


梅雀に立った露骨なフラグも説明癖と妙な絡み方をする。あまりにも露骨だから裏があると考えるべきなのだが、説明癖の産物だとつい合理化してしまい騙されてしまう。それはいいのだが、サイコとアンダーカバーは消失して死亡フラグは回収されるとなると、これ以上、何をすればいいのか。ここからの停滞が長く展開は雑になる。鈴木のカチコミはなぜこのタイミングなのか。サイコだから行動がわからない。この無計画では、別に松坂が奔走しなくとも自滅したんじゃないか。


行われているのは迂遠なフラグ回収である。サイコに社会がどう対応するか。この当初の問題は鈴木がサイコ性を喪失すると忘却された。しかし密かに社会は対応し続けていた。鈴木が終盤でサイコ性を取り戻すと、社会の対応が明らかになる。鈴木の無敵感の無理さが合理化さえされる。ついでに、回収されたと思われていた梅雀のフラグが本当に回収されるのである。


悩ましいシナリオである。皆が当事者性を保持したまま不自然は悉く合理化された。結果、何も後を引かれない絵に描いたような佳作となった。誰かに語りの資源を傾斜すべきだと、口では簡単に言えるではあるが。