N・K・ジェミシン 『第五の季節』

第五の季節 〈破壊された地球〉三部作 (創元SF文庫)最初のところヒロインがよくわからない。この人はプロレタリアに軽蔑を隠さない。僻地で過労する同業者に援助を試みる師匠を理解しない。なぜ、読者の好意を寄せ付けない性格に彼女は造形されているのか。しかも、この人物の視点で事は叙述されるから戸惑いは大きい。


一歩引いてみれば見ればイヤらしい話である。オッサンと小娘のロードムービーであり、要はキャバ嬢説教ものである。道中、小娘を説教する師のオッサンにオッサン読者はヨガるのである。しかし、それにしてはキャバ説教の感じがあまりしない。反抗的なヒロインの視点が師弟物の感じを抑えているといえばよいか。ヒロインの瑕疵が師匠の特質に好ましさを自ずと浮き彫りにする形で、婉曲的に師弟物が構成される。キャバ説教感を回避しつつ師弟物を成立させるために、ヒロインの性格の悪さが利用されているのだ。


ただ、師匠のオッサンが石喰いにモテ始めるとハーレムが露骨になりすぎる。それに呼応するように、海賊の島に到達するとオッサンが海賊のオッサンに恋をしてよくわからなくなる。せっかく成立させた師匠キャラを相対化させる意味は何か。基本は迂遠なキャバ説教と同じである。


作者が本当にヨガりたいことは、キャバ説教ではなくいかにもSFらしい近代賛歌なのだろう。物語の舞台はカースト社会である。海賊島だけが非カースト社会で近代圏に達している。海賊のオッサンは作中の食物連鎖の頂点にいて、中世人たる師弟をメロメロにさせる。近代人たる読者にはこそばゆい展開だが、賛歌が露骨だと単なる自慰に堕ちる。キャバ説教を踏み台にして近代自慰をやる意味はそこにある。恥ずかしさに恥ずかしさをぶつけることで、恥辱が対消滅をおこすのだ。