『聖なる鹿殺し』The Killing of a Sacred Deer (2017)

これでは元ネタであろうCUREを高からしめただけではないか。広角ロングで事態を観測する第三者のまなざしが話の視点をうつろわせる。主にコリン・ファレルの視点で叙述されていた事態が中盤になるとおかん(ニコール・キッドマン)によって目撃されるようになる。おかんの視点でコリンを観測する場面が多くなる。コリンの内面から受け手の目を逸らしたいのである。


CUREも同じ構成だ。中盤から役所広司の内面を隠さねばらぬ事情が出てくる。ところが、物語の視点は依然として役所にとどまる。鹿殺しではコリンから視点が外れたとすぐにわかる。CUREはこれがわからない。未だ役所の視点に受け手はとどまっていて、彼の内面は引き続き開示中だと思わされる。キャラクターの隠された事情が明らかになるとどちらが効果的に驚きをもたらすか、明らかだろう。


技術職がストレス耐性を試され崩落する話である。コリンの人の好さと直ぐに飛躍する思い込みの激しさが、崩落を笑話じみたものにしている。これは作者の意図に含まれるだろう。彼の人の好さはそこにとどまらず、ストーキングのホラー感をも損ねてしまう。コリンに苛立ってしまい、境遇に共感できなくなる。


ただ崩落するだけでは話にならないので、その先はある。コリンの軟調な態度は合理化される。家族を蝕む虐殺文法にどう対応するか。コリンの抱えるその問題がやがて彼のより根源的な課題を引き当てる。長期的な課題を受け手とともに発見するためにこそ、視点はおかんへ移行する。話はおかんによる探偵ものに脱線する。が、発見された根源的課題があらたな作劇上の不都合を生む。事態がコリンの瑕疵だと判明すればストーカー物が単なるリベンジ物になりオカルトへの不快と恐怖が消えかねない。


長期的課題が判明するタイミングを間違えてると思う。


CUREで受け手は最後にふたつのことを同時に発見する。役所は中盤ですでに虐殺文法に感染していた。これがようやく受け手に開示される。ところが、感染した役所は充足している。彼は感染して本当の自分になれた。本当ではない自分を抱えていたのである。根源的課題がかくして同時に判明するのだが、そこにおいて解決と発見の順序が逆転している。課題が解決して初めて課題が定義されたのである。当人にもわからないから、受け手への秘匿は万全である。


コリン一家の顛末も基本的にはこの構成を踏襲する。虐殺文法に感染してこの家族は超然たるダンディズムに達する。しかし発見と解決のサイクルが真っ当なのだ。コリンは依存症だった。オペにミスって報復として虐殺文法に感染させられた。悩みが消えました。これではよくわからない話であり、このわからなさは格調というよりは技術的敗北である。予め長期的課題が発見されてしまうと、その克服方法に受け手の興味が惹かれる。そこに目を向けさせた時点で敗北なのだ。CUREの構成ではトリックとキャラクターの課題が不可分であった。それをばらした結果なのである。