『ドライブ・マイ・カー』(2021)

冒頭から尻と喘ぎでナルシシズムを剥き出しにする西島。随分と挑発的なシナリオではないか。数多の演出家たちが、西島のナルを扱いかね討ち死にしてきたのだ。三浦透子もまことにイヤらしい。この長門有希ちゃんは文庫本を読みながら西島の帰りを待ち受けるのである。とうぜん西島は長門のあざとさに動揺する。オッサンにもなって小娘にいいようにされたくない。ナルのプライドが長門に対してATフィールドを張る。が、そのフィールドの形態が感情を殺す喋りとして実体化しナルはかえって極限に至る。ナルシシズムと不憫さは調和する。この発見が今回の勝利なのか。調子こいた西島は車中で真顔で猥談に走り長門にセクハラ。海辺では頼まれてもないのに過去語りを始める。長門ツンデレる。これではいけない。オッサンの邪念がストレートに表出してしまう。ここにとどまるわけにはいかない。


長門有希ちゃんもそれに類するが、懐かしの90年代ギャルゲの世界である。言語障害のヒロインが手話で演劇に臨む。長門の母は解離性同一症である。長門の唯一の友だちは母の別人格である幼女なのである。ワーニャのソーニャが、もともとギャルゲヒロイン臭かった彼女が、90年代ギャルゲの文脈へと翻案され分解される。


冷静に考えれば、いやそうでなくともマンガなんだけど、不憫さの記号化の手管と迫力に圧される。ナルと不憫さの相性が発見されたというより、尽きることないナルの圧によって、ナルがその根源へと加速していくのだ。それは何か。自己憐憫から力を得ようとする、ナルシシズムの倒錯的かついじらしいまでの明るさである。