『K-20 怪人二十面相・伝』(2008)

本作の舞台は対米戦が回避されたif世界である。総力戦がなかったためにアンシャン・レジームは温存され社会の階層化が進んでいる。本作はその是正を訴えるのだが、戦争がなかったゆえの社会問題だから、一見すると総力戦願望になりかねない。


偶然が事態を動かす典型的な通俗小説の脚本である。金城武が留置場に入るとなぜか松重豊がいて、頼まれてもないのに鹿賀丈史の件を暴露し始める。金城が路地に身をひそめると、偶然知人が通りかかりサルベージされる。


時代劇である。この手の偶然は、ただでさえ作りごとめいた空間をさらに矮小化してしまう。金城が怪人術に走る動機もよくわからない。松たか子が押しかけ女房をして昭和のラブコメも始まり、接ぎ木な感じがいよいよ露になる。


が、やりたいこともわかってくる。金城を怪人術に走らせる重力の正体はアメコミ映画である。いったんこれがアメコミだとわかると、叙法に話が牽引され状況に納得してしまう自分がいる。


叙法に説得力を持たせたのは、プロダクションデザインと演者の稽古量だろう。偶然のもたらす空間の構築感はアメコミ空間の成立にはむしろ好ましい効果を及ぼしている。この映画、技術力と脚本のちぐはぐが意図せぬ結果を生んでいるのだ。演技の統制にしてもそうである。


本作は演出家が演技を役者に丸投げしている類の映画である。この瑕疵は仲村トオルをいつにもまして棒にしている。ところが、棒が意図せざる効果を持ってしまう。仲村が何を考えているのかわからなくなることでスリラーが生まれる。受け手としては仲村の金城組への加入を期待するのだが、その際に旗幟の不明は好ましいタメとなる。


脚本の偶然が捻じ曲げる空間と事件の接ぎ木は、究極的にはウロボロスの形状を呈する。仲村は自分で自分を追っている。これは因果性のジレンマであり、二十面相が明智に化けていたとして、自分を自分で捕まえられない以上、その明智はどうしたら明智たるを売り込めるのか。鶏が先か卵が先なのか。


しかし、このジレンマのなかで冒頭で言及した社会時評の問題が擡げてくる。戦争なしに富の再配分は可能なのか。作者はこの図式に気づいてないと思わせたのだが、仲村の真の目論見がこの予断を覆すのである。



大塚久雄著作集〈第6巻〉国民経済 (1969年)大塚史学に洗脳されて以来、対米戦に至る意思決定過程に興味が持てなくなってきた。大塚の世界観において近代化の要諦は農村を封建的束縛から解放することにある。換言すれば、いかなるメカニズムが農村の搾取を防止するのか。


農村の近代化が核心になる以上、仮に農村に封建的遺制を残したまま人為的に近代化を強行すると、社会が安定しなくなる。が、近代が進行するほど私有財産は保護されるために農村の近代化は困難になる。地主からおいそれと土地を収用できなくなる。もしできるとすれば、それはいかなる事態なのか。


16世紀イングランドの農民は国王を自己利害の象徴として支持することで、貴族の封建的賦課から解放された。17世紀フランスの絶対王政下でも、貴族は公権力をすでに失っていた。国の役人が裁判を行い法律を執行し公共の義務を果たしていた。ところが、貴族の特権だけは残され、農村には封建的な賦課租が存続した。農村が近代化から取り残されたのである。


フランスは18世紀の末に革命の形で農村を封建的遺制から解放する。その過程でおよそ70万人が犠牲になった。アメリカは19世紀の半ばに内戦の形で近代から取り残された南部の遺制を廃する。それに100万人が費やされた。


20世紀まで農村の近代化が保留されると、方法は三つしかなくなる。ファシズム・戦時体制・共産主義である。20世紀半ば、ドイツはファシズムの戦争でユンカーから農村を解放した。600万人が死んだ。小作農を解放した日本の戦時体制は300万人を費やした。解決が後になるほど犠牲は大きくなる。


対米戦に至る意思決定過程に惹きつけられる。対米戦は無駄な戦争だと想定するからだ。しかし大塚史学の世界観に準拠すれば、対米戦が回避されると農村の封建的遺制は残ってしまう。おそらく1930年代前半のようにクーデターが頻発する不安定な社会が続き、いずれ農村を開放すべく大量の人死にがでるのではなかろうか。


こうなると満州事変を悔やむのも無駄になる。小日本だろうと大日本だろうと、農村を近代化しない限り政情不安はつづく。小日本をやったところで農村のフラストレーションがいずれファシズム政権を生みかねない。私有財産ベースの大正国家に農地の解放は無理な話なのだ。


もはやループ映画である。明治維新の段階で詰んでいる可能性がある。敗戦回避を目指すなろう小説を試みるとすれば、どの段階まで時代を遡り何をすればいいのか。


大塚は19世紀初頭の大坂近郊や濃尾平野の農村に言及する。封建制の規制が比較的緩かったそれら天領の農村は14世紀イングランドの段階にまで達していた。イギリスはそこから農民と王権が結託して絶対王政が成立し、それが貴族の封建的特権を廃する順路を辿る。19世紀半ばの日本に当てはめると、幕府を絶対王政化したくなる。


これでも詰む気配が濃厚なのは変わらない。ただ、前々からその傾向はあったのだが、大塚史学に洗脳されて完全に佐幕派になり、幕末ドラマを見るたびにウヌレ薩長になった。