有徳者の王国

ロッコ問題はふたつの点で人を激昂させると思う。まず命の選別を可とする功利主義に倫理的な憤りを覚えてしまう。出題者に向けられる憤りもある。ブラックユーモアのような不条理な状況が倫理に悖るように見えてしまう。日本語になるとトロッコという間抜けな語感が効いてくる。

沈黙の艦隊』の党首討論でパネラーがトロッコ問題を強いられる*1。テレビを見ていたベネットも出題を非難する。

漂流中の救命いかだに伝染病患者が一名出る。患者を海没させて残りを助けるべきかどうか?

功利主義に則り海没させると回答する者がいる。事実上の回答拒否もある。民自党幹事長の海渡一郎は何もしないで皆で死ぬという。この立場はカンティアニズムに近いと思われる。 クローデル の『ブロデックの報告書』もトロッコ問題に同じアプローチで挑む。村のユダヤ人をナチスに差し出すか、彼を匿い村を焼かれるか。作者は村は焼かれるべきだとする。

この回答には戦場の心理学を援用してもよい。銃弾が飛び交う戦場で脚は竦む。しかし僚友の危機を救うべく走り出さないわけにはいかない。死ぬのは一瞬にすぎない。怯懦の記憶は一生を苛むだろう。どちらが恐ろしいか。

ロッコ問題は倫理に悖ると人を怒らせるだけではない。自分がたまたま転轍機の傍にいたばかりに事件に遭遇してしまった。かかる不運に対する憤りがある。酷い状況を制作した出題者という名の自然に対する憤りである。

どの選択をしようとも、選択を強いられた当事者にとっては、その場所に居合わせた時点で詰んでしまう。何もしないで5人を殺しても、転轍機を動かして5人を救おうとも、人殺しには変わりがない。どの選択をしようとも生涯にわたり選択者を苛むだろう。

徴兵に際して、たとえ戦場に行かない選択があったとしても、選択を強いられた時点ですでに詰んでいる。戦場に行って死ぬ。これは一瞬である。戦場には行かない。彼は精神的な去勢を被り、その恥辱は生涯にわたって続くだろう。三島は25年後に自裁した。どちらにせよ終わりである。だとしたら、一瞬で終わる方がいい。

選ぶべき解は工学的に導けることもあるだろう。しかしそれをたまたま強いられた選択者の境遇を工学は評価できない。

悪の根源は選択を強いてきた不運である。不運という名の自然に報復したい。

カンティアニズムの世界観では、倫理的な振る舞いとは自然の言いなりにならないことである。自然の言いなりとは動物的な振る舞いをいう。

救命いかだで伝染病が出た。1名を海没させて9名を救う。人類の生存と繁殖にもっとも利する行為である。つまり、自然なふるまいである。カンティアニズムはこれを忌み嫌う。 不運という自然が人間様に動物的な振る舞いを強いてくる。我慢がならぬ。

海渡一郎がいう。政治とは神の代理行為ではない。彼はここで神を自然と解釈していて、自然な振る舞いはしないと宣言している。皆で死ぬという反自然極まりない行為で自然に報復を試みている。

極論をいえば自然に屈するくらいなら滅びた方がましである。カント曰く、もし正義が滅びるならば、人間が地上に生きることはもはや何の価値もない。正義を具体化できるのは人間しかいないからである。より前向き(?)にいえば、たとえ正義を実現する過程で滅びたとしても、それは滅びにはならない。滅びるわけがない。

子連れ狼』にトロッコ問題に準ずる状況が出てくる(「苦労鍬後生買い」)。選択が呈示された時点で選択者はやはり詰んでいる。

引退した黒鍬衆の老忍たちが烈堂に刺客を強いられる。老人らは一刀親子をつけ狙うちに彼らに情愛を抱く。老忍らは話し合う。一刀を皆で襲いかかれば、相打ちになるだろう。彼我悉く全滅する。掟で命令は拒めない。ジレンマに達した老忍たちは自ら海没する選択をする。

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不運は立派な振る舞いを人間に強いる。人間を全うするまたとないチャンスとして、不運に意義を見出せば、不運は克服されるのではないか。

カンティアニズムは倫理的なふるまいを徳と呼ぶ。老忍たちが手を携えて海没していくように、徳には連帯を呼ぶ性質がある。徳は徳を放っておかない。

有徳者の集う架空の王国がある。サブカルの用語でいえばブロンソン大陸である。

海没する老人たちには安らぎが見える。立派な振る舞いをして徳を地上に具体化してきた、あの一群の人々に自分たちも合流できた。もはやわれわれは孤独ではない。

徳は反自然である。ゆえに時間と空間に捕らわれない。戦場の心理学が訴えるように、死ぬのは一瞬だが怯懦は永遠である。徳を損なった経験は一生を束縛する。徳が時間を持たない証左である。

が、カンティアニズムにとって時間がないのはむしろ救いである。

生体はほんの短い時間、地上に実体化したのちふたたび宇宙へ返却される。しかし徳は時間を持たないゆえに自然の条件や限界に制限されない。たとえ人類が絶滅しようとも一旦達成された徳は無限に進行していく。人類が滅びようとも宇宙のどこかに刻印されるはずだ。

徳の無時間性はフィクションである。人間はその虚構を異なる形で感知する。時間を持たない徳には互いを隔てる空間もない。徳は人を独りにはしておかない。何か立派なふるまいを成し遂げ、ジェームズ・コバーンジョージ・ケネディアーネスト・ボーグナインの列に加わる。無上の安らぎがある。人間は徳の無時間性を空間の欠落に翻案して感知するのである。

*1:フィリップ・クローデル 『ブロデックの報告書』

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