仮文芸

現代邦画とSFの感想

『好きだ、』(2005)

作者の邪念に迎合するように宮﨑あおいは媚びに没頭する。それが媚びになりそうでならないのは、徳なのか何なのか。この人の視線は内包する媚に突き動かされるように一定しない。不安定な願望が内容のないショットをどこまでも持たせてしまう。


『害虫』の塩田明彦は、流されるようなその様態や比較的大柄な身体と童顔の不穏な対比を確かに捕捉していた。その怪獣映画は制御不能な身体に流される結末を迎えたのだった。


この映画は塩田ほど作為に劣る分、女の怪異を剝き出しにする。所々で、大友克洋風の、年齢不詳の老人に見えてしまうほど、それは穏やかではない。


西島秀俊がスタジオに入ると宮崎(成長して永作博美演)がブースでギターを抱えている。もともと音楽とは縁がなかったはずの女である。場違いな感じが、宮崎が地上あまねく遍在するような空想をもたらす。


この女には空間がない。時間もない。とつぜん勤務中に性欲に突き動かされた西島は電話で宮崎を口説き始める。男の横顔のアップショットがダラダラと持続し、西島のナルシシズムに叙述が囚われ始める。対象を持たない自閉したその性欲のスペルマは、内容がないだけにどこまでも薫り高い。


時空に囚われない宮崎の妖力は姉の小山田サユリを昏睡させる。西島は妖力に構わずナルシシズムに耽る。これは何だろうか。実体を持たない女の媚を通して、目標を持たない性欲たるナルシシズムが補足されているようだ。