ジャスパー・フォード『雪降る夏空にきみと眠る』

雪降る夏空にきみと眠る 上 (竹書房文庫)昨シーズンのビジネス英語にタカシがシンガポールに出張する件がある。現地法人にはルーシィなる上司がいて、タカシは一時的にルーシィの下で働く。久しぶりに本社の上司ルヴィアの所に顔を出したタカシは、ウフフと彼女にからかわれる。


「あの女がどんな仕込みをしたか、試してみようかしら?」


女性上司二人が新人男を取り合うハーレムの一類型がある。新人男が厄介な女性上司の騒動に巻き込まれる。外見は『モンタナの目撃者』のアンジーを想像してわたしは鼻腔を膨らませた。


彼女は二重人格者である。人格Aの気性は荒い。人格Bは面倒見がいい。人格Aと人格Bは別々の職場にいて互いをライバル視している。自分たちが同一人物だと知らない彼女らは、いつ行っても相手は留守だと愚痴る。しかし、薄々ながら違和感を抱いている。二人は二重人格の産物だと主人公男が示唆してみると恐慌を来す。


主人公男が人格Aに「Bと寝た」と言ってみる。Aは素っ気ない態度で応じつつも、男を殴りつける。現場を混乱させたと怒っている。


この態度には解釈に幅がある。言葉通りにとればいいのか。自分と寝たと無意識が察し、無意識に出た怒気が後付けで説明されたのか。ライバルに男を寝取られた怒りなのか。そこに私情はあるのかないのか。


ハーレムだと分かれば読者は萎えてしまう。ハーレムではないが見かけがハーレムになってしまう状況こそ甘受できるハーレムだ。無意識のさじ加減がこれを可能にするのである。


無意識の問題は形態を変え作品全体に行き渡る。アクティヴな脳死患者たちが惰性で生前の習慣を繰り返す。彼らに意識はない。主人公男はそのひとりと恋をする。彼女は絵師である。「黒い髪をゆるいポニーテールにまとめ、ダウンジャケットの下に絵の具の染みがぽつぽつとついたオーバーオール」なる、いかにもキャラクター小説な外貌をしている。


本作は集合無意識の話で、無意識だからイベント相互に論理的なつながりがなく、事件の解明を模索されても模索の尽力が伝わってこない。しかしキャラ小説としては、二重人格上司の件のように無意識のフワフワが強みにもなる。


脳死の女は恢復して記憶を取り戻す。男とは意識の閾下の付き合いだから恢復すれば他人になる。


自分を忘れた女と男は言葉を交わす。かつての彼女と自分の交わしたやり取りが、偶然、そこに再現されてしまう。愛はアイロニカルによみがえる。だからこそ切なくなるのだ。