結婚観のブレが筋の構造を軋ませている。恋愛を特権視するのか。家庭を法人視して恋愛の有無に重きを置かないのか。
広末は恋愛主義者に見える。他方で姉の小山田サユリは結婚生活を破綻させつつある。彼女の存在は広末の結婚観を留保する。恋愛を経た結婚かどうか、それは後の家族の営みには影響がないと小山田は示唆する。
最後の車中の森口瑤子もそうだ。抱擁し合い恋愛主義を称揚する広末と香川を森口は蔑む。彼女は恋愛主義そのものを蔑むように見える。彼女もまた情人との関係を破綻させつつある。
人の性能にムラがある。これもよくわからない。香川は性能高い男だ。彼が再生する序盤は『過去のない男』(2002)を踏襲する。記憶を失っても性能の高い香川は失われた生活の基盤をたちどころに再構築する。
堺の陰謀によって苦境に落ちた彼は申し分なく受け手の同情を誘う。同情の伏流として、広末もそうなのだが、発達障害を好意的に解釈する作者の態度がある。香川が役者としてサクセスしていく話をずっと見ていたい。しかし中盤で結婚の話になり挙句に香川が記憶を取り戻すと筋の運びが荒れ始める。
素人の広末に香川が尾行を許してしまう。三文役者と設定された堺が突如まともな演技に開眼する。しかも、本当は俺は高性能だと辻褄合わせを言ってしまう。そうなると、彼の今日の境遇が説明できなくなる。
香川にも類似の瑕疵が生じる。彼はバツイチである。経済問題が別離の原因である。香川の過去は恋愛と経済をリンクさせて恋愛主義を留保する。が、彼は高性能男である。それが経済問題で別れたのは腑に落ちない。堺も恋を破綻させたばかりである。甲斐性なさに女が愛想をつかしたと取れる。これはもちろん本当の俺は高性能宣言と矛盾する。恋と経済がリンクするのかしないのか判然としない。
結婚観のブレがキャラの造形に災いをもたらしている。しかし、筋の荒さを圧する情の流量も否定できない。それもまた結婚観のブレから流出するように見える。後期山田洋次的というか、『幸福の青い鳥』の長渕と志穂というべきか。二人への好意が恋愛の行く末を案じさせるスリラーをもたらす。これが筋の瑕疵を隠すのである。