実体のないヒロイン

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)『春の雪』と『奔馬』にはヒロインに実体がある。春の雪は聡子の機知と勇気を具体化するエピソードを冒頭に置いている。宮崎アニメ的構成といっていい。


暁の寺』はこれをやらない。女の内面がわからないからこそ聖化できる機制が活用されている。知ってしまえば俗化されてしまう。男の自意識小説である暁の寺はそれを恐れる。劇中人物たる、今まさに女に恋をする男自身が、不確かな女の実体と聖化の関係を自覚し、ドキドキするためにかかる機制を積極的に利用する。男は女の内面を知ろうとしない。オッサンの芸者遊びのように、相手の真意を敢えて知らないことで恋愛の焦燥に身を置き、それを享しもうとする。谷崎小説的であり、オチはまさに『卍』になる。ヒロインは、男の盗視する中で女と絡み合う。


実体に欠ける女には利点は確かにある。前述したように不明瞭な真意は人を焦燥させる。しかし実体に欠けるものを、そもそもどう好きになればいいのか。外貌に好きの根拠を依存するのはひとつの手である。『暁の寺』のヒロインも外貌が蠱惑的に語られる。が、どうも乗れない。作者とわたしの好みが違えているのか。それもあるかもしれないが、前二作のヒロインの、如何にも文士好み外貌を鑑みるに、ヒロインと相対しようとする男の心理が女の姿態にも投影されたようにも見える。ヒロインにはのめり込ませない。男の焦燥は受け手には共有されなくともかまわない。


このあたりの機微は最後のポルノで判然となる。実体がなければ聖化される。他方で、聖化は時として性欲を挫いてしまう。もし本当にのめり込んでしまったら、ポルノをそれとして享受できなくなる。谷崎的ではなく花袋的な状況になってしまう。作者はこういう私小説を嫌ったと思われる。


なぜポルノにしたいのか。ヒロインの外貌がようやく好きの根拠になるからだ。性欲に好きを依存させるのである。だから最後の『卍』は忙しいことになる。あるいは輪廻の話らしい再帰的な構造だったというべきか。