『零戦燃ゆ』(1984)

60年代の戦記映画を知る者にとっては、冒頭からすでに隔世の感がある。搭乗前には機体の視認がなされ、几帳面にチェックリストの手順を踏んでエンジンが始動する。原作の理系指向もあるが、20年前の戦記映画には望むべくもない解像度である。


しかし、加山雄三海軍大尉の登壇が遠近感を狂わせる。『太平洋の翼』(1963)で加山はすでに海軍大尉だった。これが20年経っても出世していない。叙述の進歩と硬直した配役の矛盾を外化するように、加山機はフラッターを起こし即退場となる。


この解釈は半ば茶化しであるとしても、冒頭における加山の退場は本作の理系指向の理念をよく体現していると思う。理系(文化部)志向がメカの描写に限定されず人間関係にも及んでいる。『風立ちぬ』史観といっていい。理系がモテるのである。堤大二郎(搭乗員)と橋爪淳(整備兵曹)と早見優(キャワイイ)が三角関係にある。橋爪は早見を諦め堤に譲ってしまう。整備員より搭乗員がどうみてもモテる。早見の好意は堤にあると察し、橋爪は身を引いたのだった。ところが早見の真意は...と文化部勝利エンドを迎える。


これではただ邪念である。笠原和夫の脚本は話をただの理系の自惚れで終わらせたりはしない。早見の内面はあくまで秘匿される。これがポイントである。能天気な文化系男は女の真意に気づいていなかった。脳筋と思われる体育会系こそ、女の真意に気づいてしまった。体育会系男のかかる傷ましさを文化系男は最終的に察する。体育会系は咬ませ犬にならず、文化系は傍観者にならない。


堤も早見も失い、橋爪はひとり敗戦を迎える。燃やされる零戦を前にして膝を屈する橋爪。ニューシネマのようなこの挫折感はなんであろうか。青春が終わったのである。笠原らしい集団劇と個人劇の絡みが4年に渡る戦時を青春に読み替えたのだ。


そして頓挫したその三角関係には既視感がある。アラン・ドロン(飛行士)とリノ・ヴァンチュ(メカニック)とジョアンナ・シムカスである。女はアラン・ドロンよりもオッサンのメカニックを選んでしまった。飛行士が女の真意を察していたと知り、メカニックは最後に頭を抱える。これは『冒険者たち』のパロディなのだ。


いずれにせよ60年代の戦記映画には不可能な感傷である。ここ数年、80年代の邦画を観る機会が多々あった。この時代を邦画の不作期と思い込んでいた偏見は打ち砕かれた。特に印象のなかった80年代の日本が大好きになった。