イージー・ライダーを見返す

イージー・ライダーは頻繁に見返している。もっとも、It's Alright, Ma から 「髪を切れ」の件だけを流してキャッキャしてるだけで、全編通したのは学生以来じゃないか。SD画質でずっと見てきたので、BSでやってたのを画質目当てで録画した。画質は残念だったのだが。


数年前、HALに同化する気満々で2001年宇宙の旅を見返し、逆に激昂した。この無能AIが人間様になにを仕出かすのか。イージーライダーもこれに準ずる事態が生じたのである。デニス・ホッパーはともかくとして、ピーター・フォンダに対する好意に変化はない。にもかかわらず、南部のオッサンらが哀れにみえてしまった。なぜなのか。


学生時分に比べれば筋を構造として捕捉する力は増している。即興演出の向こうに筋の堅実な構造が容易く見て取れる。殊に前半は生真面目に手順を踏んでイベントを起こしている。農家に至るためにパンクして、コミューンに至るためにハイカーのヒッピーを拾う。唐突に農夫の家やヒッピー村に迷い込ませたりはしないのである。他方で、農家とヒッピー村は筋としては傍流で、本筋とはあくまで思想的に絡みこれを支えている。ニコルソンの登場を待たないと、映画の体にならない。留置場を出たニコルソンが一杯引っかけてアレをやるショットで、映画が一気に華やぐ。代わりにイベントトリガーは粗雑になってくる。ニコルソンとの出会いはパレード乱入が契機である。最大の難所、ルイジアナ手前のカフェに立ち寄ったのは生理的事情にすぎない。前半の農家とヒッピー村が思想的なイベントだからこそ、トリガーはその分物理的になるのだ。


地獄カフェは異常な感じがした。不快というよりもエキゾティックな感じである。オッサンらが笑みを湛えて蔑む。これはわかりやすい。しかし一人、真顔で三人に憎悪の眼差しを向けるオッサンがいる。「郡境は越させねえ」オッサンである。彼の暗い情念が引っかかる。


初見よりも、この地獄カフェは耐えられる場面になっていた。オッサンの蔑みをいくら受けても、三人は文明の威光で現地娘の好意を引き寄せてしまう。南部のオッサンの立場になれば、イージーライダーは敗戦文学なのである。南部という敗戦国のオッサンらは戦勝国の若者にメスを奪われようとしている。ここでようやく「郡境は越させねえ」オッサンの情念が理解されるのだ。自由が彼らを怯えさせるとニコルソンは説く。しかし恐怖は悲しいほど生理的な事情に来歴している。


これは清張の『黒い福音』とか『砂の器』のノリに近いんじゃないか。ベルギー人神父が痴情のもつれで女を殺める。清張の筆はオッサン刑事に乗り移り、メスを奪った戦勝国のオスを追及する。砂の器も、映画は全然違うが、オッサンがヒッピーを詰める話である。


この世界観に立ってしまえば、あの最期は唐突なだけに、ミッドサマーのような、異俗の部落に迷い込んだ怪綺談に見えてくる。敗戦の暗い情念に彼らは巻き込まれてしまったのだ。