『ちょっと思い出しただけ』(2022)

恋愛の発端から終焉までカバーした『花束みたいな恋をした』(2021)と比較していい。『ちょっと思い出しただけ』は破局の契機が明確である。池松壮亮は怪我でダンサーを続けられなくなった。『花束』には破局に至る決定的なイベントはない。それだけに、破局にはより格調高いイヤさがある。両作とも破局の遠因は通底する。男が人生にしくじって、女との釣り合いが破綻したのである。


破局の理由が通俗に流れる分、『思い出した』の構成は少々トリッキーである。破局の数年後から話は始まり、恋の発端へと遡及していく。その過程で伊藤沙莉に好意を抱くよう受け手は誘導される。


伊藤への印象は悪い。怪我で塞ぎ込み、一時的に距離を取った池松へ彼女は鴉声で罵倒を浴びせる。一人で抱え込むな云々と。夢絶たれた上に罵倒が飛んでくるのだから、これは池松に同情を覚えてしまう。伊藤への印象は悪くなる。


逐次的に最初から終わりまで捕捉された恋は、フィクションという叙事には向かない事象かもしれない。発端の前後が最も楽しいのである。告白の直前が最もスリリングである。あとは下り坂で収束していくのみだ。


この意味で『思い出した』の倒叙体は理に適っている。何よりも安心感がある。最悪は劇の発端に配置されていて、それ以上は悪くなりようがない。終わりに向かって楽しくなるばかりである。事実そうなる。


冒頭で不快だった伊藤をどう愛おしくするか。作者は身体という物証を利用する。スラリとした河合優実を伊藤の幼児体型にぶつけるのである。まだ恋人未満期の頃だ。伊藤が誕生日プレゼントを渡すべく物陰から窺ってると、河合が池松にでかいプレゼントを贈る現場を目撃してしまう。河合はメスの顔である。10代にして才能ある踊り手である。自分は幼児体型のタクドラである。これは敵わんと逃散し自棄食いに走る。その不憫さがたまらない。


もしゼロ年代ならば、この役はきっと田畑智子がやっただろう。10年代ならばミシェル・ウィリアムズか。もし智子だったらミシェルだったら、あのラストの破壊力はいかほどのものに......とすでに目頭が放熱してきたが、ともかくファーストコンタクトの打ち上げでも伊藤の幼児体型が活用される。業界人ばかりの会場で、一人、伊藤の幼児体型が孤立して佇む場面がある。ここも不憫で父性を掻き立てられる。


紆余曲折を経て伊藤は告られ、受け手も浄化を得たところで突如、遡及は止まり物語の起点に送還される。そもそもなぜ遡及が始まったのか。伊藤は池松の姿を偶然見かけたのである。かつての恋を思い出してしまったのである。


他の場面でも言及されるが、破局後も伊藤は池松を引きずっていた。回想から覚めて、現実の池松を遠くから眺める伊藤にも未練は見て取れる。観てる方は前の場面の幸福感を引きずってるから、これだけ未練があるのなら、より戻すENDじゃないかと勝手に期待してしまう。


帰宅した伊藤はベランドの欄干にもたれ黄昏る。もうまた付き合っちゃえよ~と画面に向かって囃すワシ。直後、ギャッとなった。男(屋敷裕政)が、赤子を抱いた男がベランダに顔を出したのである。伊藤の薬指には指輪が。なんだのこの既視感は。タクドラだから手袋で指輪は見えないのである。何と邪悪な。伊藤を愛おしく思わせるだけ思わせておく。地獄に突き落とすためである。失恋の追体験が目論まれていたのだ。


秒速の明里にとって、タカキ君の‟今そこにある危機”はちょっと思い出した過去にすぎず、その落差が酸鼻であった。伊藤もちょっと思い出しただけである。しかも現在の自分は優しい夫と子宝に恵まれている。なぜ泣ける必要があるのか。つい先ほど目撃した、夢破れた男の傷心が伝播したのだろうか。それもあるだろう。しかし、どんなに幸福でも思い出してしまうのである。特定個人への未練はむろん克服される。が、失恋の痛み自体は克服不能で思い出してしまう。


毎度の解釈になるが、「思い出す」個体の方が生存率が高く、結果、多くの人類に思い出す習性が備わるに至った。なぜ「思い出す」方が適応度が高いのか。頑張ってしまうのだ。傷みから逃れるためには、頑張るしかないのである。幸福だからこそ未練がつらくなる。幸福だから元には戻れない。このアンビバレンツに、人類を駆り立てる思い出しメカニズムの地獄が捕捉されたのだった。