ちょっとムカっとしただけ

遠い過去の自分に対して行われた不正には、時間を戻せない以上、対応する術がない。それはわれわれには自由にならないものであり、したがってわれわれの責任のないものであり、もはや関係のない事象である。にもかかわらず、立腹してしまう。あるいは変えられないからこそ、イラっとしてしまう。決定事項の過去の心象に心を奪われ時間を浪費してしまう。


変えようがないことに時間を費やすのは無駄である。悪への加担ですらある。過去の自分に行われた不正は悪である。それにムカっ腹を立て時間を浪費するという悪を現象させてしまえば、自分への不正という悪に加担することになる。この悪循環は断ち切らねばならない。自分がただムカッ腹を立てなければ連鎖を止められる。地上に正義が実現される。ストア派の学者がいう。もしなにか苦労や不名誉がやってくるならば記憶しておくがいい、いまこそ競争であり、もうオリンピックの競争なのだ、もう延期はできない、しかもたった一日と一事で、進歩がだめになるか助かるかなのだ、と。


ツァラトゥストラI (中公クラシックス)しかし、やはり人間イラっとしてしまう。イラつくなと鼓舞されるほど、余計にイラついてしまう。どうすればイラつかないでいられるのか。ニーチェは不思議なことを言う。不正によるその被害はむしろ自分が望んだことだと。これは何か。


幼児が修羅場に際して取り乱しても誰も責めはしない。幼児が取り乱すのは自然であり、したがって当人には選択の余地がない。選びようがないから責任を課しようがなく恥でもない。


成人したオスが修羅場に際して取り乱してしまう。これは時に非難の謂れとなってしまう。幼児と違い彼には選択の余地がある。泰然とするか取り乱すか。名誉の概念は選択ができないと発生しない。この現象は一般に自由と呼ばれている。あの過去の不正も自由の根拠のひとつである。過去の不正は正義を実現する機会を作ってくれたのである。


中世の倫理感は物乞いを容認し時に聖化すらした。物乞いが有産者に慈善による善行の機会を与えるところから、身分として評価された。過去のわたしに不正を働いたあのひとびとの正体は乞食なのである。