「第38回 時を継ぐ者」『鎌倉殿の13人』

北条一家はまことによくわからない。事が済んでしまうと、自分たちの殺害すら目論んだ義母を相手に、政子も義時も団欒を再開できてしまう。夏目雅子は「美しいロシア」と書くことができなかった。書けないからこそ、ロシアをどれだけ愛していたか証明された(『二百三高地』)。ところが北条の人たちは平然と「美しいロシア」と書いてしまう。


悲劇の後に団欒をやりたがる作者の意図はわかる。クールダウンという作劇の手順に則っただけである。あるいは、中世のカジュアルな死生観の反映と解せば、北条家の団欒を許容できないこともない。しかし語り口から判断すれば、とうぜん作者は謎団欒を蛮人のエキゾティックな風俗の抽出だと思ってはいないだろう。彼らがサイコに見えてほしい意図はない。むしろサイコに見えてほしくないから団欒をやらせる。


経緯はどうであれ、人々を団欒の状況にはめ込んでしまえば、人間心理は形式に引きずられて穏やかになるという、あながち誤りとはいえない形式主義への信奉が全編に充満している。これにあまりにも依存すると、人々は一貫した性格を失いかねない。うまく嵌れば上総介謀殺回のサイコ頼朝となるだろう。やりすぎると単なるムラっ気集団になる。


大泉当人が理解不能だと三谷に訴えた件がある。結婚報告に来た義時と八重を前にして、頼朝が嬉々として八重との過去を執拗に語る場面である。頼朝がサイコに見えてしまうのは当たり前なのだ。作者自身がどこかズレている。


死体の山の上でアットホームを入れる。作者はそれをグロテスクだとは思わない。グロテスクで終わらせたくないからこそアットホームでまとめる。この発想こそサイコそのものに他ならない。アットホームになれるわけないだろう。


和田の物忘れが意味不明である。この先、何かの伏線になるとしても、あそこでなぜ滑らせる必要があるのか。作者がサイコ気質であるから、同じサイコのメフィラスと波長が合い、三浦が全編イキイキしてくる。このあたりは『シン・ウルトラマン』的である。


最後の義時と時政の邂逅も二つの意味で戸惑いを覚える。「父上の背中を見てきた」と義時はいう。これは健忘である。見てきたのは兄貴の背中であって、親父は足を引っ張ってきただけである。サイコとは状況に反応するだけの精神をいう。義時は感傷に流されるままに過去を改変している。しかしだからこそ、作者の無意識に接近できてしまう。対話が進むと、父に対する呼称が「父上」と「あなた」に分離する。時政が分裂して、あたかも「あなた」が「父上」を簒奪したかのようなニュアンスが生じ、性格の病的なムラが批判的な視座を獲得する。


上総介謀殺回をまた思い起こしてもよい。自分の中に眠るオーベルシュタインを発見した義時にも同じ機序が働いている。彼に自身のオーベル性を発見させたのが作者の分身たるメフィラスだったのもとうぜんの成り行きである。