原罪の創生

喋血雙雄(1989)の結末は呉宇森の異常性が発揮された最たる場面である。現職警官に投降者を射殺させてしまう。その際、ダニー・リーがサイコ扱いされることはない。フレームは彼の顔に寄り、むしろ受け手は彼に移入するよう強いられる。


前に言及したが、ダニー・リー当人が監督脚本した公僕(1984)が結末で同じ状況を迎えるから、余計に喋血雙雄のサイコ感が突出する。公僕でもダニーは相棒を奪った犯人を追い詰め発砲する。ところが銃弾は意図的にすべて外される。彼は憎悪を克服して職責を全うしたのだった。そのダニーに投降者を射殺させ感無量に至らしめる呉宇森の趣味の悪さ。


ユンファの扱いも異様である。職業的殺人者を呉宇森は英雄視する。「死んでとうぜんの人間を殺してきた」とサリー・イップに言わせてしまう。この話でもっとも罪深いのはユンファである。サリーへの台詞から犯罪に対する自責感のなさがわかる。そのうえ、仕事中ヘマをして民間人であるサリーの角膜を損なってしまう。ユンファを追うダニー・リーまでも、呉宇森の視点に成り代わり次第に衆道的感情を抱き始める。


と思い込んでしまうのだが、ユンファの顛末に至ると、呉宇森が本当に考えていたこと、いわば真の自意識が晒される段となる。万が一のことがあったら自分の角膜をサリーに呉れてやれ、とユンファはダニーに後事を託する。ところが、最後にユンファを蜂の巣にする弾丸の一発が、彼の眼球を掠め角膜を使い物にならなくする。呉の自覚がそこで判明する。最も罪深いユンファに相応の断罪が下されるばかりではない。呉の熱情はユンファのおかげを被りかねないサリーすらも許さない。彼女もユンファの罪を構成する成分として断罪されたのだった。呉は彼なりのやり方で筋を通していたのであり、むしろ熱量が高すぎて一見のところ断罪と認知し難いのである。


あまりにも情熱的な断罪の網目。その神話的ともいえる膠着状態にダニーは巻き込まれたのだった。一発の弾丸が角膜をダメにして、ダニーを後事から解放してしまう。断罪のピタゴラ装置が作動を開始した今となっては、彼にはもうやることはひとつしかない。狂気に走り投降したシン・フィオンを断罪せねばならない。自律化した罪は人間の手を離れ拡散し構造化した。われわれが目撃したのは原罪の創生なのだ。