『SR サイタマノラッパー』(2009)

モブからメインに至るまで、造形の出力する情報量は膨大である。低廉な絵の質感がこれを受け止められそうもない。貧しくなるほど郊外の情報量は豊穣になる。青年らはその背景に埋もれようとしている。郊外の情報量とは無秩序の産物である。そこから逃れるべく室内に逃げ込んでもまた別のカオスがある。会議室ライブと居酒屋の客の圧。


人間の無秩序から生じる多量な情報も気まずい圧となって青年を襲う。低廉な背景に芝居の統制で対抗しようとした試みは、長回しが始まると挫折する。『ロードサイドの逃亡者』野外フェイスのカーチェイスの牧歌。『ギャングーズ』ラスト、牛丼屋の前の群衆統制の不手際。本作でも長尺のラップを前にしてモブが尺の長さに耐えきれなくなり気まずくなる。ところが、本作ではこの気まずさに正当性がある。気まずくなければならない。客の居たたまれない圧が、夢を追ってないで就職しろと事を社会化するからだ。社会小説のフラストレーションこそ、都合のいいヒロインの都合のよさのカウンターバランスとなるのだ。社会からの圧がなければ、ヒロインが絵空事になってしまう。


ヒロインを失った青年はいよいよ制作に執着する。郊外の無秩序を意味ある情報に変換する術を彼はそれ以外に知らない。その頂点に佇むタケダ先輩の徳の好ましさ。