境涯の重さ DQIII(FC)について

十数年間隔でDQIII(FC)をプレイしていると、アレフガルドの難易度が上がってしまう奇妙な現象に出くわしてしまう。たとえば、ようせいのふえの位置がわからなくなる。もしDQIの知識があれば、マイラ温泉の南4歩目はDQIIのあまのつゆいとに類する有名な話であるから、難なく笛を回収できるだろう。ところがDQIの記憶が薄れると、ようせいのふえで詰まりそうになってしまう。笛がマイラにあることはNPCが教えてくれるが、村のどこにあるのかわからない。聞き洩らしているNPCがいるはずで、それが誰なのか、もと来た道を引き返して、方々の町を彷徨う羽目になる。該当するNPCドムドーラのまことにイヤらしい位置にいるのだ。そもそも歳月がアレフガルドの地理感覚を失わせるために、町々の位置がわからない。


初見プレイの際にはDQIの記憶が鮮明であることが、かえって記憶定着に障害を引き起こしたと考えられる。初見では地上世界の知識は皆無であるから、探索によって地理感覚は養うほかはなく、その結果として地理が記憶に残った。ところが地下はDQIの記憶が鮮明であったから町の位置に困ることはない。イベントは難なく消化されるために記憶に残らなかった。こうしてアレフガルドが新鮮な驚きを伴って後々に立ち現れてきたと推測される。


難易度だけではなく、アレフガルド心理的にも重く響いてくる大陸である。この重さの源泉は地上から流れてきた二人のNPCに集約される。ラダトームの教会にいるカンダタの変わり果てた姿とマイラのジパング系移民である。殊に後者のグラフィックがフレームに入った瞬間、ギョッとなった。なぜこの連中がここにいるのか。やまたのおろちを恐怖するあまり、こんな涯てまで逃れてきたのだった。


地上組2人はDQIIIの主題を明確にする。世界の涯てに流れ着いてしまった感覚である。地上組は涯てにいるという地理感覚を強いてくるのだ。オルテガのグラフィックがカンダタと共にするのは揶揄の対象だが、この笑いはDQIIIの根幹に迫った証左でもある。オルテガこそ流浪の感覚の中心にある。彼の足跡をたどる旅が流浪の感覚を知らずに醸成していく。ムオルのポカパマズアレフガルドの最果て感覚の前座である。


ムオルのNPCに「ここまで歩いてこれる」と示唆する老人がいる。わたしはこの台詞をこれまで特に気にしなかった。今更ながら、先日、本当に歩いてムオルに行けてしまうことを知った。ダーマ神殿から東に行けてしまう。おそらく船を取る前にダーマから歩いて行けばムオルの辺境の侘しさは一塩だろう。


DQIIには旅の感覚があった。IVはそれを失っている。IIに対する贔屓目には幼少の思い出補正が大いに働いている。しかしそればかりでもない。IIIはIIとIVの分水嶺だ。IIIを境にしてドラクエは物語に傾斜していく。物語を重視すればインタラクティヴである必然性が失われかねない。他方でDQIIIには冒険の感性がまだ残っている。それこそムオルに歩いて行けてしまうような辺境の地理感覚に他ならない。


IIIのオルテガ臨終の場面を振り返ろう。父を看取る勇者の反応が不明である。勇者はプレイヤーキャラクターだから反応は客体化されない。反応はプレイヤーには自明だから描く必要がない。PCはプレイヤー自身だからである。IIIが未だ分水嶺にとどまるからこの機微が出てくる。明確なストーリーではなくジパングNPCのグラフィックだけで境涯の重さを表現しえた。老害臭く言えばここにDQIIIの格調がある。