志麻、心のむこうに

岩下志麻の極妻のなかでは五作目の新極妻が最も取っ付きやすいのではなかろうか。入門編には最適だと思う。一作目は極妻というより五社英雄の怪奇映画である。岩下復帰の四作目で事態を動かすのはかたせ梨乃であり、岩下は事態を傍観するばかりである。


新極妻の那須真知子脚本はキャラクターの性格を偏らせない。突出した造形を中葉に収斂させようとする。武闘派の高嶋政宏は最初、脳筋に見える。母の岩下は宥和派で息子の脳筋に容赦しない。息子遭難の報が来ても顔色一つ変えない。ところが一人になるとヘナヘナ~と床に崩れる。この人は仕事人と母親の狭間で分裂している。


これはこれで惹かれるのだが、それは普通の人であって極妻の岩下の類型ではない。那須脚本は一旦は類型から落とした岩下を、そのツンデレを踏まえた上で、再び極妻へと押し上げる。


息子政宏の闘争路線は止まらない。このままでは落命確実である。愛する息子を前にして岩下はついに母性をさらけ出してしまう。息子に縋りつく。引退てくれと土下座までやる。


政宏は反発をやめない。引退を拒絶する。かつ、宥和路線の不備を指摘して、ただの脳筋ではなくなってしまう。岩下も恐怖を越えて、政宏の強情をよろこんでしまう。一人前の極道になったと血を騒がせてしまう。息子の身を案じるのが母性であれば、成長に血を騒がせるのも母性である。彼女の人格は統合される。


本作は終盤で不可解な場面を迎える。岩下が桑名正博に襲撃されると、顧問弁護士のかたせ梨乃が乱入してきて桑名を射殺。民間人の行動にしては飛躍し過ぎで、そもそもどうやって銃を。ナイトとして終始岩下に使える本田博太郎は何処へ。


場面の終わりで物陰から博太郎が顔を出し事が氷解する。すべては博太郎の監視下にあった。彼が梨乃に銃を渡し、行為を誘導したのだった。こうなると梨乃には行動を飛躍させる動機があったことが思い出される。梨乃は政宏に好意を抱き始めていた。自分が不用意に黒幕の桑名に情報を洩らしたばかりに、政宏は落命してしまった。暴対法で弁護稼業も廃業寸前である。この場面には論理的な裏付けがあり、しかも場面の終わりで一寸、姿をみせる博太郎だけで受け手に上記の事情を悟らせようとする。受け手のリテラシーに挑戦するのである。


本作は本田博太郎のアイドル映画ないし変態映画でもある。ナイト博太郎は心の底から岩下に心酔している。岩下のナイトである自分に陶酔するナルシシストである。


ラストの葬儀。もはや鬼神と化している岩下は博太郎を横目にしながら微かに顎をしゃくる。夏八木勲を取ってこいと。博太郎は岩下のサディズムとそれに粛々と従う自分にゾクゾクする。自分が好きでたまらない。ゆえに自分を滅ぼしてしまえる。ナルシシズムの妙である。


夏八木勲もいい。お約束の岩下の自傷プレイにもこの人は動じない。博太郎の突撃にも取り乱さない。この人がテンパるのはほんの最期の一瞬。テンパり方にも工夫がある。


結局は近代ヤクザの夏木に為す術もなくやられてしまった。能力がないために清算主義(誤用)に追い詰められた。大筋は、仕事のできない人々の暴発という古い任侠映画のパロディにすぎない。


しかし、暴発というには静かすぎる。鬼神化した岩下は実のところ静かに壊れているのかもしれない。長女が岩下を責める。夫の桑名を母が殺害したと。岩下はにこやかに慰める。


「お母ちゃん、今まで一遍も嘘ついたことあるか?」


人格分裂ネタが回帰した。これでは任侠映画ではなくむしろ恐怖映画である。スタッフクレジットを飾るのは在りし日の岩下一家の家族写真。男どもはみな滅びた。岩下も滅びた。全部滅びたのだ。