願望という名の前戯 『秒速5センチメートル』

ギャッと一瞬で地獄に突き落とされるのが『ちょっと思い出しただけ』(2022)であった。女は既婚なのだが、受け手をギャッとさせるべく冒頭からこの情報は隠される。対して秒速は真綿で首を締めにかかる。受け手が知りたくてやまない男女のその後の境遇をジワジワと漏らしてくる。伝わってくる情報はどれも不穏極まりない。


いうまでもなく最初の難関は「出す宛もないメール」である。明里との交際は当然続いていて、あのメールはリアル明里宛てだと疑いもしないから、ギャッとなる。ただ、そのギャッはタカキくんが廃人になってしまったギャッであって、いまだ失恋の苦しさには達していない。単に疎遠になっただけの話であり、帰京すれば元の鞘に収まることだろう。二人がうまくいってほしい願望が次々と出来する不穏な事態を合理化していく。


話が東京に戻る。踏切で明里らしき女とすれ違う。すれ違うのだから付き合っていないのは明白であり冒頭から不穏極まりないのだが、シーンの尺は短く要領を得ない。むしろ不穏が興味を引き立ててくる効用の方が大きい。


次の場面でいきなり知らぬ女(水野理紗)が登壇して戸惑う。更に彼女はタカキ君と破綻しつつあると知らされ混乱は増すばかりだ。


岩舟のプラットホームでは「来月が式」と明里がいっている。とうぜん相手はタカキ君だと想定される。正確にはそうであってほしい。この願望がつじつま合わせを始める。タカキの野郎、明里というものがありながら、さては浮気を?


あるいはこれは『君の名は』のような叙述トリックであり、岩舟のプラットホームと水野理紗の場面は時系列が逆順しているのではないか。正しい順序は理紗→冒頭の踏切→岩舟であり、理紗と別れた後に踏切で明里と再会し来月式となったのだ。そうに違いない。そうに決まっている。


車中でアンニュイな明里が「あたしも彼もまだ子どもだった」と独白する。タカキ君が「彼」呼ばわりされ二人の交際の裏付けとなる。にしてはタカキ君、荒廃し過ぎじゃねえか? すでに予感はあるのだが、願望は現実を直視させない。


こうして悪魔のコンビニに到達する。


「何の迷いなく、いつか桜を一緒に見れると、思っていた」


過去形である。もはや合理化の道は断たれた。しかし我ながら呆れるのだが、あの怒涛のPVを以てしても希望は失われない。はっきりと拒まれたわけではない。環境のせいである。再会しさえすれば何かあると受け手もタカキ君も信じて疑わない。だからこそ理紗とうまくいかなかった。妙な期待を抱かせてしまう冒頭の踏切が効き続けている。希望が地獄への前戯となる。


どうしたら合理化を止められるのか。どうしたら正しく失恋できるのか。


再会の時がやってきた。小田急線の焦らしがたまらない。とうぜんこちらは明里は待っていると思い込んでいる。視界が空けると美事にギャッとひっくり返る。はっきりと拒まれた。


秒速の悲恋の構造は一粒で二度美味しい地獄である。真綿で締めかかる地獄があり、かつ最後は瞬間的なギャッで締める。両者の地獄は互いを補完している。最後にギャッとするための希望なのであった。