パオロ・バチガルピ 『第六ポンプ』

第六ポンプ筋が定型ならば創作のリソースは筋の組み合わせに投じられる。


ブツを拾い追われてしまう。


自分がいつの間にかメカにされていた。


『ポケットの中の法』(1999)が検討するのはこれら定型の筋を媒介するアイデアである。少年が拾ったデータキューブにはダライ・ラマの人工知性体が格納されていた。手術中、勝手にキューブに転送された設定であり、ダライ・ラマがIDクライシスに陥ってブツを拾う筋からメカにされた筋が派生する。瞑想のプロを動じさせる件に政治的意図を邪推したくなるが、ただ、これは組み合わせというより派生でありクロスジャンルに近い。組み合わないからブツを拾った少年の筋もダライ・ラマの筋もオチがつかない。


噛み合わなさは『フルーテッド・ガールズ』(2003)にもある。封建社会になったデストピア物である。各社団によって礫岩的に構成されたその社会は法人格がストックマーケットで売買されている。しかしこの市場原理は封建制と噛み合うものなのか。


『砂と灰の人々』(2004)はメカにされた人物の動揺が引き続き追及する。ダライ・ラマが同一の個体の内に有機体とメカが混在する設定に対して、こちらはメカ化した人間が動物を飼い始め有機体への郷愁を誘われる。IDクライシスはより緩やかになり、有機性とメカメカしさが別の個体に担われている。


メカのIDクライシスは、『イエローカードマン』(2006)のねじまき少女と『第六ポンプ』(2008)に至ると惰性の感覚に置き換わる。自意識を失った個体が惰性で人間の振る舞いをつづけてしまう。『ポンプ』は疫病で人々が知的境界に落ち込んでしまう筋で、インフラが崩壊しつつある。罹患していない男は無双状態にある。メカID物がなろうと組み合っている。かつ、メカIDが社会化している。しかしこのなろうは悲観的である。知的な遅れがないといっても男は技術職でも何でもない。インフレの老朽化には対処療法しかできず、無双が悲酸な現状の認知にしか使われない。


意識なき個体が惰性する感覚は境界知性の人々がそれを偽る挙措に現れる。数学が苦手な主人公は高校数学で挫折し、自分の知性に絶望して退学した過去がある。教師もクラスメイトも男の不出来を嘲笑う。実際は彼らにも理解不能でわかった振りをしていただけだった。男にはわからないと認知できる知性があったのだった。