大塚久雄の重商主義

福岡と熊本の県境。豊前街道沿いに肥猪と呼ばれる町がある。明治の初め、父方の実家はこの地で醸造を営んでいたのだが、幼少のわたしは家のルーツを聞いて戸惑ったのだった。肥猪は1970年代に電話が開通したような何もない僻地である。醸造のような産業が成り立つとは思えない。そもそも肥猪‟町”に違和感がある。町のようなものは何処にもない。


明治初年、肥猪の街道沿いは町だった。



木賃、木工、麹屋、鬢付屋、菓子屋、漢方医等々、およそ40戸が250メートルの通りに軒を連ねていた。交通の便が悪い遠隔された僻地では、地産地消の必要から村落内で必需品を自給自足できる町の形成はむしろ自然だった。明治以降、流通機構が整備された結果、比較優位によって地域間の分業が進み、肥猪の地域内分業の町並みは消滅してしまった、と推測される。しかし、この機序が逆転することもある。


大塚久雄著作集〈第11巻〉比較経済史の諸問題12世紀から13世紀、封建制下のイギリスでは工業は専ら都市で営まれ、村落は農業に特化していた。地域間のこの分業を媒介したのが商人である。


封建制は領主層と商人を共通の利害で結びつける。封建制下の農民は保有する土地を耕作する他に、領主の経営する直轄耕地で賦役労働する義務を負う。賦役で足りない場合は日雇も駆使して領主は穀物や羊毛を作り、それを商人が輸出する。商人は外国からさまざまな贅沢品を輸入し、領主たちに売りつけて利益を上げる。


14世紀に入ると荒蕪地を開発し尽くした中世ヨーロッパはマルサスの限界に達し、ペストにも追い打ちされて人口はピークアウトした。労働者は減少し日雇の賃金が上がると、領主は農民たちの賦役労働の量を上げ始めた。負担に耐え切れない農民は逃散した。


都市でもギルドの規制に耐えかねた職人が農村へ流出し始める。ギルドとは雇用維持のための労働規制である。同業者たちを失業させる手織機の使用は制限される。雇職人と徒弟の数にも上限が課せられる。


規制を嫌った職人たちはギルドの影響力が及ばない農村に逃れ、イングランドの方々に職人が混住する工業村落が誕生する。村では定期的に市が立ち、職人と農民が生産物を持ち寄り売買し合う。局地的な市場圏が散在しているこの状態を当時の人は commonweal と呼んだ。近代の揺籃である。


封建領主と商人にとって commonweal は共通の不利益である。工業村落は逃散した農奴を徒弟や日雇として雇用し吸収してしまう。職人と農民が直接売買を行うため、商人の出る幕がなくなる。


領主が工業村落を規制しようにも、行政司法の実権が国王直属の治安判事に移っている。領主の規制が及ばないからこそ、職人は村落に流れたのである。都市ギルドが絶対王政を動かして規制を試みても、やはり治安判事が都市の法令をスポイルする。結果、大商人は軒並み破産し外国貿易は衰退した。


領主の封建的規制が効いている東部ドイツでは農村工業が発達しない。ギルドに規制された中世都市が方々に距離をへだてて散在し、その中間はほとんど農牧だけの純粋な農村地帯で、農奴の逃げ込める場所がない。



王のいる共和政 ジャコバン再考絶対王政が農村を領主から解放する機序は早くから知られていた。16世紀ポーランドの思想家パヴリコフスキは農奴制を批判し、君主政が強化される方が領主による農民の恣意的支配は抑制されるとした。


オランダはこの機序の逆をいって衰退したケースである。オランダで進展した中継貿易は農村工業と相性が悪い。前述したように自給自足を志向する工業村落は貿易を衰退させる。アムステルダムの商人たちは農村地帯の士地とそれに付着する封建制的裁判行政権を買いとって、都市貴族 regentenとよばれる封建制的な支配者層を形成し、農村工業のかたちをとって成長していたオランダの毛織物工業を圧迫した。


18世紀に入るとオランダに資本あるいは資金の過剰が現れてくる。国内に製造業がなく貿易で儲けても投資先がない。資金は国外向けに、とりわけイギリスに向けて放出される。イギリスの国債を買い、いろいろな会社の株式や社債を買うことで、オランダは競争国イギリスの経済成長を助け、自国経済の開発の方には資金を向けられないまま衰退を迎える。


14世紀後半に開花したイギリスの局地市場圏は、19世紀に入ると日本の方々で見られるようになる。名古屋の近傍や大阪郊外から西へ延びる瀬戸内海の沿岸などに、自給自足指向の農村工業が広がっていた。しかし、開国で外国貿易が始まるやいなや、各地の局地的市場圏は歪められ壊されはじめる。


産業化が逆に近代の土台を崩してしまう機序がある。産業化のために機械を輸入するべく商品作物を輸出して外貨を獲得する。このモノカルチャー化によって、近代の自生的基盤である自給自足の産業構造が破壊される。


幕末の天領、信州佐久郡横根村では全戸口の3分の1に近い村民が農業以外の職業(とくに手工業)に従事していた。5年後の明治5年には、そうした農業以外の職業はほとんど消えて、全戸口の3分の1以上がいまや養蚕を営むようになる。そして駄賃付や質屋の数だけが増えている。鎖国のなかで少しずつ育ってきた局地内的分業関係が、開国によって一挙に遠隔地貿易を目指す分業関係へ編制替えされたのだった。


近代化の過程で自給自足指向の産業構造とモノカルチャーは衝突する。18世紀のイギリスではウィッグ派の保護主義とトーリー派の自由貿易主義が対立し、前者が勝利した。アメリカでは南北戦争で南部のモノカルチャーは撲滅された。


幕末には瀬戸内海沿岸の農村工業地帯が奇兵隊募兵の基盤となり、攘夷論が農村工業の展開に由来する国民的な経済的利害を代表した。明治以降も、ウィッグ vs トーリーの構図は趣意を違えながら、大隈の殖産興業政策と松方財政の形で現れる。


開港と維新 (日本経済史 3)19世紀初頭から始まった農村工業の時代は明治20年に終わる。自生的近代の芽は19世紀の国際経済秩序に組み込まれるや頓挫した。大隈財政によってインフレの利得者になっていた農村はデフレーションによって荒廃し、明治国家崩壊の遠因となった。農村の内部からは農工の分業関係が消え、昔ながらの伝統的な構造の村落に戻っていった。地方の醸造業も松方デフレとともに衰退し、わが家も同じ運命をたどった。


昭和の末期、肥猪の町に残っていたのは高札場の向かいにある菓子屋と、廃されて久しい郵便局の瀟洒な建物である。現在は両者とも消滅し、ただ郵便局跡を示す石碑が残るばかりである。