『車夫遊侠伝 喧嘩辰』(1964)

発端は情報不全の三角関係であった。内田良平は桜町弘子に一目ぼれする。桜町は曾我廼家明蝶の情婦である。内田良平は彼らの愛人関係を知らない。この無知が最初は強みとなり、のちに悲恋の構造を拡大していく。


内田良平曾我廼家明蝶の前で恋に悩乱する自分をさらけ出す。加藤泰のレイアウト主義は、二人のやり取りを背にした桜町弘子の顔を三分のワンカットで捉え続ける。


荒野の決闘』でフォンダとマチュアがファーストコンタクトする酒場の場面。ウェインは二人の後方にモブを配置する。対話が険悪になればモブの顔は曇り、友好的になれば明るくなる。モブの表情が二人の関係の指標として用いられる。


桜町弘子は、恋に焦燥する内田良平の叫びを聞いているうちにメスの顔になっていく。内田を悩ますのは経済問題である。桜町は芸者である。無一文の自分には手の出しようがない。彼は悩乱のあまり割と無茶なことを言う。貴様何とかしろと曾我廼家明蝶に逆切れする。乱心を傷心の証と解した曾我廼家は連帯感を覚えてしまう。二人とも失恋の境遇に置かれている。曾我廼家は桜町をあきらめる。


この展開には欺瞞がある。経済問題は解決されたのではなく棚上げにすぎない。障害は経済という実体物から義理という観念へ置き換わる。女が曾我廼家の情人と知った内田は女を拒む。自由人である内田は負い目による拘束を何よりも恐れる。曾我廼家は藤純子(かわいい)を新たな情人に迎え、義理立ての負債から内田を解放する。これがかえって悲恋のジレンマを伝播させてしまう。


苦学生河原崎長一郎内田良平の同輩である。インテリに弱い藤純子は河原崎を好いている。二人は相思相愛にあるが、リアリスト藤純子は曾我廼家の情人に納まる。河原崎は好きでたまらないがしょせんは絵に描いた餅である。立ちはだかるのはやはり経済であるが、性欲を堪えかねた河原崎は藤を孕ませてしまう。


内田と桜町の筋は負い目の解消により目的は達せられた。これ以上の伸びしろを失った筋は河原崎と藤の悲恋にその展開を託した。これは一種の二部構成であり、内田と河原崎の筋はつながりに欠ける。またしてもいい面の皮となった曾我廼家が藤をも河原崎へ手放す展開は性急で都合がよすぎる。二部構成の弱さによって構成の恣意が露呈している。やはりここにも欺瞞があるのだ。経済の課題がまたしても棚上げされるにとどまらず、曾我廼家が藤を手放せば内田の負い目が復活してしまう。しかしこれに気づく者がいない。


内田&桜町では経済の支障が義理の負い目に変わったように、河原崎&藤でも経済は別物に置き換わり河原崎を襲う。銃弾という暴力となって。


抗争へ人を追い込んでいく任侠物のプロセスが悲恋の拡大再生産の中に組み込まれ、悲恋のジレンマが任侠物の機制を逆に援用する。この相互参照の再帰構造こそ、感染する悲恋の終着点なのだ。