貴志祐介 『新世界より』

新世界より(上) (講談社文庫)瑕疵のある設定にはふたつの可能性を想定してよい。真正の瑕疵なのか。作り手は承知の上で瑕疵を設けたのか。


本作で問われるのは作り手の人権観である。


人間が巨大なネズミをエッセンシャルワーカーとして使役している。遺伝子を組み替えられたネズミの知性は人と変わらない。人語を話し読み書きする。にもかかわらず、もし人に対して粗相をすれば害獣として駆除される身の上である。


物質文明が崩壊して千年がたつ。残存した人間はみなサイキックである。ネズミたちは人間たちのオカルトに抗しきれず、人を見れば叩頭を余儀なくされる。ネズミたちは奴隷であり人権侵害の要件を満たすと思われるが、人間たちに人権侵害の自覚は微塵も見られない。


人権観の違和感には二通りの解釈がある。作り手自身が人権マターだと考えないのか。それともオカルトたちの人権感覚を非難したいのか。事を人権マターにしたい意図が次第に見えてくる。


人権という語の初出は中巻の277頁である。


人の数だけサイキックのいる地球は、個人が事実上の核武装をしている火薬庫のような状況にある。18歳未満にはフル規格の人権が生じず、サイコの兆候を露わにした生徒は秘密裏に殺処分される。近代社会とは異質の人権水準が示唆され、奴隷制が合理化されてくる。


人権マターが決定的になるのが同巻の394頁である。ネズミがヒロインに訴える。

「およそ知性を持った存在には、等しく権利が与えられるべきではないのでしょうか? 私は、それを神様の本から学びました。民主主義の大原則です」


ヒロインは当惑するばかりである。彼女にはネズミたちが人権に値するとは思えない。曰く、人語を解してもしょせん獣であり、いくら感情が人に似ていたとしても肝心なところは異なるはず。後述するが、この態度は最後まで一貫している。


人とネズミの人権観が対比されたところで、SFらしい捻じれた近代賛歌が見えてくる。


下巻に入るとネズミのコロニーは女王の恣意的支配を廃して議会制民主主義を導入する。技術ツリーは火器生産の段階に達する。近代圏の読み手にはネズミの方が人権的にも技術的にも近い存在になってしまう。オカルト人類はサイキックゆえに技術を要せず彼らの物質文明は後退している。かつての物質文明には侮蔑しかない。これでは、少なくともわたしには、ヒロインに情を寄せ難い。彼女はネズミを使役する社会に属し、彼らを獣扱いするのだ。


本作はSFではなくジュブナイルと見てよい。前半は中学生の冒険譚に終始し、ターゲット層の年齢は低い。内容もネズミコロニーからの脱出劇であり、ネズミの境遇を嘆ずる身にはヒロインの顛末にまるで関心が向かず、頁は高速にめくられていく。中学生は絶えずネズミを下僕扱する。これにも業腹である。


ヒロインの造形には人権思想以外にも不審がある。この人は事あるごとに自分と他人の線引きを曖昧にしてしまう。


個々人のマントラはプライバシーとされるが、ヒロインは友人のマントラに興味津々で、見るだけではなく姑息な手を使って暗記までしてしまう。


出木杉を好きになってしまうヒロイン。出木杉には男ができる。気が気でならないヒロインはストーキングして出木杉のセックスを出刃亀する。これだけなら焦燥に駆られたと解せないこともないが、この女には出刃亀の余罪がある。


サイコの兆候が表れ出木杉が自分の暴走を恐れて身を隠しても、ヒロインの厚顔は愛する男を探さずにはいられない。近づくな危ないと警告する出木杉にガンガン詰め寄り、挙句に出木杉を自決に追い込んでしまう。


『ホットギミック ガールミーツボーイ』(2019)の山場である。女のムラっ気に翻弄される男は疲弊のあまり、女を諦め立ち去ろうとする。男を袖にしていた女は一転して男の後を追う。男は悲鳴を上げる。


「なんでついてくるんだよお」


わたしは爆笑した。


実際は、人権マターと同様にヒロインの厚顔さにも裏がある。彼女は村の政治エリートの候補とされる。禁忌を破るような太さが買われたのである。しかし、この太さが活劇に活かされたとは言い難い。危機に際して発動されるヒロインの太さは愚痴の垂れ流しで終わりがちである。


ネズミの人権マターの方は彼らが人類に反旗を翻して佳境を迎える。しかしこちらも、視点はあくまでヒロインにとどまり、危機への対応を観測する体裁である。わたしは『悪の教典』(2012)の三池崇史のごとく、このオカルト野郎どもをぶち殺せとしか思わないから、ヒロインの逃走劇は肩透かしである。


近代科学vs.オカルトの図式にも意図的な混線が入る。


火力を以てしてもネズミたちはオカルトには抗せない。彼らはオカルトの赤子を養育しオカルト兵器に仕立てオカルトどもにぶつける。


オカルト側もオカルトだけでは抗しきれないと悟り、大量破壊兵器を求め東京の地下でグーニーズをやり始める。


文芸の作法としては適っているかもしれないが、物質文明支持者には面白くない展開だ。


ネズミの敗北で終わる顛末にも涙しかない。しかも、整理されたはずの人権マターがオチで再び乱調を来す。


ヒロインはネズミの出性の謎を知る。ネズミは獣から進化した生き物ではなかった。外見を獣にした人であった。ネズミが人であると分かって初めて、ヒロインは人権侵害を自覚して戦慄する。


ヒロインの人権観は最後まで一貫している。知性の水準はどうであれ、獣には人権が生じない。人権というからには人以外に生じるはずがない。


ところが、先に引用したネズミの訴えのように、ネズミ派のこちらとしては、人権はある水準の意識に発し、その担体の有様は問われないと考える。ネズミの正体が人であって人権があるとオチられても、オチに値する意外さを覚えない。


人権観のこのズレは動機主義と結果主義の対立に還元されるだろう。


人権は人の権利だから人にしか生じない。ヒロインのこの考えに対して、結果主義は人間というあやふやな概念に信を置かない。人に値する行為という目に見えるものこそ、人権対象の指標である。


肉体を捨てさせまくる現代SFは結果主義に与しないと成立しないだろう。ネズミの人権観も結果主義ベースである。しかし本作はオチになるとヒロインに動機主義の人権観を固守させる。真意は不明だが、ヒロインの人権観が変わったように見えて実は微動だにしないことに、作者の自覚はあるのかどうか。悲嘆にくれる彼女の描写を見ると疑問になってしまう。SFの文脈を適用すると、これがいかにもアナクロに見えてしまう。