日本語話者にとって架空戦記は正史から逸脱する運動である。英語話者の創作では『高い城の男』のように正史に戻す運動が欲求され、正史から逸脱してしまった、あるいはそうなりつつある状況は悪である。
悪の存在はフィクションに没入するための要件である。連邦側の史観に則れば前日談の事態はフラストレーションであり、逸脱の参画者を罰し正史を回復させたい欲求が事の顛末を我が事として受け取らせるだろう。しかも状況への憎悪は世界観全体への嫌悪と共鳴している。70年代ロボアニメの審美感が丸出しとなった扮装と美術は何事であろうか。原典において美術の悪趣味が認識されないのは、美術の狂気に見合った芝居が悪趣味を世界観のお約束へと矮小化するためである。原典の口吻をなぞるだけで狂気を再現できると考えるジークアクスでは、美術の審美感に人物の行動が追いつけず悪趣味が露見してしまった。これはハサウェイとは逆の事態である。人間の狂気を忠実に再現できてしまったハサウェイではブラッシュアップされた宇宙世紀の景物が多動者の群集劇とかみ合わなくなり、悪趣味な人間観が突出した。
正史から逸脱を試みる人間と悪趣味な景物を退治したい。シャアの消失とキャラクターの行動に見合うサイド6の美術によってこの欲望が満たされてしまえば導入部の悪は無効化され、新たな悪を早々に定義できなければ筋は滞留するだろう。本編で少女を突き動かしたのは移民を弾圧する当局者への義憤である。
正史からの逸脱がジオン側には憎悪として機能しないように、移民は貧困層の利害と対立するから移民の迫害に寄せられる義憤は全ての感情的利害を包摂しない。そこに義憤を抱けるためには相応の経済的境遇が少女に必要だ。相応の経済的境遇にいなければ、それが万人に通用する義憤になるとは考えられないだろう。この悪の定義は企画にかかわったスタッフの経済的境遇を示唆している。
戯画的にのべれば、家や車の話題で談笑する人々とその傍らでカップ麺をすする独身者の対比は、実力主義の業界ではありがちな景色である。成功は能力と長時間労働の然るべき産物であり、世襲では絶対にアニメーターにはなれないのであるから、成功者の厚遇に非難の謂れはないのだが、敗残者の隣で談笑できるほど正当性の自認を能力主義がもたらすために、センシティヴな社会時評の領域に足を踏み入れてしまい悪の定義を損なってしまう。モブのオッサンの姿を借りる弾圧者たちはナイーヴさの証明である。
格差の現場で成立する共同作業は奇観である。実際は皆が腹に一物を抱えながら表面を取り繕い、だましだまし現場は回され時にだませなくなる。格差の現場をひとつにできるのは素材の出来である。夢中になれる素材だけが立場と境遇から各人を救い現場を祝祭に変えるだろう。
創作の技術的見地からジークアクスの評価を試みて見えてくるのは、会話の間へ均等に12コマずつ割り振ってしまうような、単純作業の中に希薄化していく演出の意志である。これは同じように会話のリズムに頓着しなかった原典のパロディと解せなくもないが、編集点の方は一様に台詞尻に設定されシャアの決め台詞の尻すら容赦なくぶった切るほど作業化している。原典はおそらく棒つなぎで済ましていて編集意図はそもそも存在していない。
オッサンの孤食を観察する『孤独のグルメ』の2時間は一瞬の出来事であった。その半分の尺に満たないであろうジークアクスの本編では、ザクで移民をいじめるオッサンの日常が気になるばかりで女子高生の宇宙世紀生活が頭に入ってこない。サイド6で定義された悪に乗れなかったために世代差が実効化され、劇中人物の境遇を我が事にできない。しかし格差の現場が一つになれるように普遍は確かに存在するはずだ。
架空戦記で正史の回復を目指す英語話者の欲望は日本語話者の感情的利害に反する。明治国家の存続が前提にある『ロスト・メモリーズ』(2002)も『高い城の男』とカテゴリーを同じくする。劇中人物が現状を偽史と解釈し正史に戻す運動を始める筋は韓国語話者と日本語話者に異なる心象をもたらすだろう。それでもなお、正史の回復が果たされたドメスティックの場からは、進んで踏み台になった人々の矜持が政治的立場の壁から漏れ出てくるのだ。