仮文芸

現代邦画・SF・経済史

『ファーストキス 1ST KISS』(2025)

夫の行為を家族を捨てたと解釈する松たか子には事実誤認の気がある。2人は事実上離婚している。以降の松の行動はこの解釈を正当化する試みにすら見えてくる。幼子を失った母の被る不幸量に前夫を失った女のそれは到底及ばず、幼児を救う方が正解すぎるために選択の余地はなく、事をトロッコ問題にするまでもない。最初から決まっているのだとしたら人間にできるのは態度を変えることしかない。しかし子を失った母に比肩できるような不幸を夫の死から得られるのなら話は別になる。一定の未来に収束させる力が作中全体を支配し、何をやっても夫は赤子を救ってしまう。功利主義的な正しさに収束させる力へ抗うためには夫を熱愛して赤子を救う選択肢の正当性を少しでも毀損する必要がある。


松村北斗の不可解な熟女趣味も2人の結婚を予定するその収束力に誘導された性癖と見なせば合理化できなくもない。彼にとって熟女趣味は羞恥だが松にも恥ずかしさはある。過去に戻れば過去の自分が登場してきて、20代想定の岩井俊二映画のようなキャピキャピっとした自分をアラフィフが演じる屈辱を強いられる。しかもおそろしいことにカワイイ。年相応のオバハンに扮した松の前にキャピキャピの本人がド~ンとSE付きで現れ、若作り芝居の羞恥を伝えてくる。


若い男がアンゲラ・メルケルの尻を追いかけオバハンがギャルを演じる喜劇的喧騒の中でループ改変は『花束みたいな恋をした』(2021)が残した宿題を片付けようとする。純愛の季節は終わり等身大の相手と向き合った結果、互いのささいな瑕疵に耐えられなくなり『花束』のカップルは破綻した。観客は自身の経験と後悔に基づいてキャラクターの行動にああせいこうせいと突っ込まざるを得なくなる。松夫婦も同じ経過をたどり過去の戻った彼女はまだ純愛を信ずる松村と出会い『花束』の観客と同じ立場に置かれる。松の結婚の顛末を聞かされた松村には恋が覚めてしまう現実が信じがたく、夫が妻に取った冷淡な態度に憤慨し自分なら絶対にしないと言い切る。松はブチ切れる。それは手前がこれからやる事なのだ。


純愛の困難はそこにある。やがて恋から覚め人並みの欠点を備えた等身大の相手を受容しなければならない時期がやってくると経験は教えてくれる。それがわかってもなお聖性喪失の現場に立ち会えばムッとしてしまい何度でも関係を駄目にしてしまう。


純愛はあり得るのか。本作は肩透かしなほど楽観的な見解を導きながらも、その予後には暗い解釈を挟む余地がある。


夫を失った松には関係をやり直して純愛を実証する術がなく、その仕事は松村に託され物語は彼の視点に切り替わる。夫の視点で冒頭が始まる文法エラーがそこで回収される。松村を最後まで突き動かすのはやはり熟女趣味である。松と結婚すれば酸鼻な死が待ち受けるにもかかわらず、彼は松と入籍したがる。15年後には今目前にいる熟女の松とまた出会えるからだ。梶尾真治であり直接にはおそらくセリーヌ・シアマの援用だろう。本作にはこのリリカルSFを純愛の実証に用いた点で付加価値があり、これがまた松村の試みを一種のアンチノミーにする。純愛の実証は不幸量を増す。幸福になった分だけ予定される別離が双方にとってつらくなり事故のもたらす不幸が加増しトロッコ問題が検討すべき課題となってしまう。未来を収束させる運動が宇宙全体の不幸量を保存しようとする。


純愛を保留する要素は他にもある。メルケル化した松にも萎えない松村の性欲は、彼を熟女趣味にして未来の収束を試みる力の産物にすぎないのではないか。あるいは純愛は別離の期日がわかっている特殊条件の招いたイレギュラーな事象ではないか。


純愛の実証が始まり宇宙が分岐すれば、添い遂げられなかったほんらいの松の処遇も気になってくる。2人の松をつなぐのは3年待って届いた”はまだのギョウザ”である。ギョウザを焦がした本来の松は時を戻したいと地団駄を踏んだ。分岐した松のもとへもギョウザは届き、再挑戦の願望は別の宇宙の自分において現実化するのだ。