主旨を一言でいえば姫の尻ぬぐいである。彼女のしでかしは過失ではなくもろに故意であり、尻をぬぐう甲斐がない。しまいには尻ぬぐいのために築かれた死人の山に人々は徒労感を覚え尻ぬぐいの意義を探るも、明確な答えには至らない。
尻ぬぐいを正当化するために設定されるのは男の心理的な負債である。姫の尻ぬぐいが自分のヘマの後始末にすり替わる。本筋とは関連のない冒頭のエピソードが負い目の土台を構成している。弟の尻ぬぐいに失敗した記憶が辰巳に心理的な負荷を加えている。戦場で失われた自信は戦場に戻る以外に取り戻す術がない。再び誰かの尻をぬぐわない限り男は負債から解放されないのだ。
潜在的な負い目に加えて、辰巳は具体的なヘマをしてしまう。当初、辰巳は正しい判断をしていた。女のしでかしは完全な自責であるから身柄は組織に引き渡されてしかるべきであり、辰巳もそれを試みる。この件は創話の難所である。女は共感を呼ばない。だからといってそれを見捨てれば男が共感を失いかねない。ジレンマを解決するのは男の裏切りを察する女の知性である。危機を予測し女が追っ手から逃れてしまえば、事はその知性を見抜けず油断した男自身のヘマになる。女の遁走した責任が男に問われても、もはや自分のヘマも状況に加担しているわけだから、文句がいえなくなる。
災厄は辰巳の身内をも巻き込み、尻ぬぐいに更なる当事者性を加える。女の姉が死期を悟る件は劇中でもっともポエジーな場面だが、最後は辰巳自身がこの状況を反復し、難病ものの趣向が尻ぬぐいの正当化に利用される。尻ぬぐいが、死期を悟った志村喬の公共事業と化する。手負いの獣が奮起する趣意は、ヴィラン退治の件では手負いの獣が見放される情感へ反転する。
総じて見れば男たちは性欲と呼ばれる自然の暴威に屈したのであって、姫は童貞ヤクザたちを手玉に取り互いを競わせ組織を自壊させた。この情けない印象を払拭するべく、男たちは同性愛に走って自然に叛逆し、結果として姫を取り囲むハーレムと並行して男たちがやたらと辰巳を甘やかすハーレムができあがる。自主製作でなければいかにもピエール瀧が演りそうな後藤剛範に「お前しか行くところがない」(キャー)と濡れた仔犬顔で懇願する辰巳は風采のよさを露骨に利用している。彼もまた自然を利用していて、自然に利用される屈辱を少しでも相殺しようとする。