仮文芸

現代邦画・SF・経済史

『ゆきてかへらぬ』(2025)

中也の童貞じみた虚勢とすずの金で女郎を買う詩人のサディズムには飛躍がある。実際には女郎買いも虚勢の一環であり、すずの金は富永太郎に流れサディズムへの飛躍は合理化されるのだが、何よりもすずを恐怖させるのは富永の持参した文明物である。


明治国家の育んだ都市文明がある。吉田健一はそれを「紀伊国屋の店先でコクトーの新刊書から眼を上げて服部時計店の天辺にある時計を見たときの気分」と表現した。中也と小林とすずが生きる1930年代は文明の完成期にあたる。この文明の共通言語は仏語であり、結核は文明病である。『仏蘭西文学研究』の第1号を持参した富永は吐血を催し、すずはおびえるばかりで何もできず、帰宅してきた中也には叱責され男女の関係は完全にくつがえる。東京に転出してもすずは文士たちを避け、中也と小林がランボーでキャッキャすれば癇癪を起す。この三角関係ではインテリの紐帯がすずを孤立させている。


ここから小林がすずを略奪したくなる経緯は拘泥されず、ボートの場面をひとつ挟むだけで小林の性欲が勃興し、三角関係は暴力的に次の階梯へ移る。そこで問われたのは知性の優劣であり、今度は中也が小林とずずの関係からはじかれくやしがるも、なんだか様子がおかしい。


すずには疑念がある。


サイコが男たちを手玉に取ったようでいて、実際のところサイコに引っかかったのは女ではないか。小林はセックス中に心理描写をダダ洩れにしてすずを萎えさせながらすずの視座を引っ張り出し、これがトラブルを引き起こす。


すずは役者らしく形式しかない女であり、その無内容が小林を惹いたと思われるが、心の真空地帯が視点を担うのはロジカルエラーであり、矛盾が強迫神経症として現れば視点は男たちに戻され三角関係は再び変質し、それは地雷を判別できなかった小林の受難劇となる。


中也もサイコであるから、一連の騒ぎを厄介払いとは思わず発症した女には同胞愛を覚える。


中也と小林が桜を眺める場面がある。すずの精神分析に勤しんでいた男たちは、そのうち散る桜に気を取られ、すずの話題を放置して分析癖を全開にする。すずがいなくとも話が成立してしまう。


男たちとは異なり造形に文明の裏付けを持たないすずには筋を拘引する力に欠け、その文明観は複雑になってくる。文明に敵意はあるのだが、形だけしかない女だからダンスホールではその身に文明を模倣できてしまい小林の性欲をよみがえらせる。しかし文明とは自意識である。メガゾーン23の作者たちは自分たちが何らかの文明の絶頂期にいると正しく自覚していた。中也にも小林にも自覚はあったはずである。30年代の銀座を歩く吉田がそうであったように。


すずには自覚がない。自覚がないから踊れてしまう。その虚を見抜いている中也はサディズムを発動し、良くも悪くも正直なすずは挑発に乗り、また新たなる三角関係の兆しが生じる。


春画先生』(2023)は江戸の文明的終焉を人間関係に重ねた。本作は人間たちの挙動を通じて文明が崩壊する現場に立ち会おうとする。崩壊を前駆的に感知するのはクリエーターの身体である。富永は吐血し、すずは強迫神経症に罹患し、中也に至っては結核菌が脳を直撃する。


すずと同様に作者は文明に無頓着で、新宿は3Dの書割でしかない。火葬場の煙に対する小林の嘆じは評伝的スタンスにとどまり、ローラーリンクの件ではすずまでも中也を天使と形容して評伝じみてくる。


油断すれば中也評伝に流されるのは自然である。最初から小林の視点で整理して中也の生き様を観測する趣向ならば、視点がここまで散らかった構成にはならないだろう。ところが、一緒に煙を眺めていたすずがおかしなことをいう。背骨が曲がってきてると訴える。彼女もクリエーターの端くれであるから文明崩壊の兆候を捉えられる。関係はまたも変転し、クリエーターの連帯に評論家がはじかれる体裁となる。


『あちらにいる鬼』(2022)の三角関係が抽出したのは三者を三様に苦しめた機制であった。本作の視点は三者の間を激しく往来するうちに、誰でもない第三者の視点へとなって文明の自叙伝の語り手となり、劇場を後にすれば日比谷の街並みとその向こうに見える丸の内の高楼群がその文明の墓標に見えるような没入感を引き起こす。