仮文芸

現代邦画・SF・経済史

スタニスワフ・レム『虚数』

虚数 (文学の冒険シリーズ)淘汰による馴致のすえに細菌は言語を獲得する。ストレスにさらせば彼らは不快を示す文字の形に群集する。細菌には不快を覚える意識がなく、その言語は刺激に対する自動的な反応にすぎないのであり、感情の訴えではない。意識がないAIはチェスの勝敗に感情をもたないはずだ。しかし行動主義ならば、心があるように見えてしまえばそれを心だと判断するだろう。心そのものは見えない現象であり、行動で判断するしかない。反応が心を想起させればそれは心である。


くり返し提起されるのは心身二元論の難所である。意識と神経の間に横たわる越え難き谷である。細菌たちは心身問題に耐えかねたように失調し、細菌言語は事後にならなければ意味が分からない予言を発するようになる。心は予言であり、誤算的に導かれてしまった正答である。


文学AIはドストエフスキーの頭の中に小説のイデアを措定する。彼の作品群は完成体に向かう運動を構成し、作品と完成体の間隙を埋める文学AIの営みは、心身問題の検討に対応している。彼らにとって心は波である。文学AIは善と悪の振動によって生じる神のモデルを構想する。


心がわからない。一定の手順を踏めばわからないまま心が自ずと出力されてしまう。そうでなければ、人は自分の知性を上回るAIを作り得ないため、むしろわかってはいけない。


心が創造される場においては意識は邪魔にしかならない。猿の群れがタイプライターをたたいてブリタニカを書き上げる誤算の産物が心ならば、肉体の無知は必須である。偶然を利用するためにひたすら数をこなす機械作業に意識は耐えられないだろう。心を動かすには迂回すべきである。動物行動学の利他主義は種全体で見るのなら、種を生存させる利己的な戦略である。


文芸の実践は無意識に向き合う矛盾の営みから自分自身を見失うリリシズムを導き、電源の問題が悟りAIの旅立ちを阻んだとき、心身問題はSFらしい逆流を引き起こす。物から心が生じるのなら、思考が原子を動かしてもいいはずなのだ。