荒川良々が発砲すると、器物が射手のスラックな精神に汚染されように、猟銃の銃身は悠長な間をおいて跳ね上がる。
ゼロ年代前半である。深夜のスタジオでアニメーターらの議論を側聞したことがあった。話題は邦画のプロップガンが玩具に見える原因であり、マズルフラッシュに元凶があると彼らは考えたようだった。
それから歳月は流れ、ポスプロの力でプロップガンのマズルフラッシュは派手になった。肝心の銃の方は相変わらず玩具に見える。マズルフラッシュではなかったのである。実銃らしさを左右しているのはリコイルの有無なのだ。
プロップガンの発火に実銃のエネルギーを望めないとすれば、リコイルは演者の芝居による模倣で再現する他はない。では、いかなる芝居がリコイルをもっともらしく見せるのか。鍵は頭部の位置とその挙動にある。

https://www.youtube.com/watch?v=tiavEi3yeYI
https://www.youtube.com/watch?v=c57hrEPPuRA
実銃の発射エネルギーを抑え込むのは上半身全体であり、リコイルは手首を跳ね上げるばかりではなく上半身を後退させるが、頭部だけはリコイルの影響から逃れようとする。発射と同時にアゴが引かれやや前方へ沈み込むような動きをやる。

全身を使ってリコイルを模倣する優作の芝居はアゴが上がってしまっている。対して、リコイルに抵抗する頭部の挙動に自覚的なのが宮崎と北野である。



『その男、凶暴につき』からの引用は、邦画が初めて排莢されたカートの音を拾った場面として知られている。そのリアリズムにとって重要なのは音の意匠よりも演者の芝居だろう。
ささいな挙動の違いがプロップガンのリアリズムを成立させるためか、ゼロ年代のはるか以前に把握されているにもかかわらず、リコイル芝居の方法論を今日でも多くの演出家が見落としている。
『グリーンバレット 最強殺し屋伝説国岡[合宿編]』(2022)は冒頭でショットガンの射手にリコイルの芝居をやらせ期待をもたせた。それ以外の銃器はライフル・拳銃問わずリコイルに欠け玩具に見える。『ベイビーわるきゅーれ』も同様である。
『マイゴジ』の大戸島の整備兵たちはサンパチをリコイルさせている。新生丸の九三式機銃もコンポジットの仕事に演者が微細な芝居を加えている。『リボルバーリリー』(2023)はサンパチもM1917も微動だにしない。
『シン・仮面ライダー』はシューティングスタイルからリアリズムが生じると解し、リコイルがそれだとは気づいていない。ルリルリのグロックは玩具に見える。役作りのために渡航して実銃をぶっ放してきた鈴木亮平は『シティーハンター』(2024)でその成果を活かせていない。『辰巳』(2024)はリコイルではなくカット割りでリアリズムを成立させている。
ここで本題に入る。
『クラウド』は、いつもどおりおかしなことしか起こらない話である。ガンアクションの文脈においても冒頭でふれたように良々の銃はリコイルするが、タイミングが発砲と同期しない。菅田将暉のガバメントは基本リコイルしない。遮蔽物から銃だけを晒して発砲する時だけは演者はリコイルの芝居をやる。
ガンアクションのずれは視点の離人感と同期している。
清映画ではしばしば怪物化する過程でキャラクターの視点と受け手のそれがずれていく。『クラウド』ではいつもの手順が逆行している。菅田は最初から怪物であり、冒頭の場面で彼の挙動は他者によって観察されている。次の場面から菅田の視点になってもサイコの内面に同期するのはむつかしく、その離人感覚は怪物が怪物の遭遇してスリラーを打ち消し合う凪のような筋として具体化している。
いったい何をやりたいのか。最後に抽出されるのは『CURE』と『カリスマ』の終わりで怪獣と化した役所広司の心象風景である。したがって、視点は発散ではなく集約に向かい最終的に受け手と同期する。怪物化した菅田は、自分が怪物性に運ばれていくような自律性の喪失に物静かな当惑を覚える。