壁向こうから聞こえてくる英語教材が神の声に聞こえる。華人系の彼女はダブルリミテッドのように言語的故郷と分節化の力を失い、引っ越しすらスリラーになる。自分の天然を特権化するモラルだけが、認知症のようなカオスにかろうじて操持をもたらしている。そのモラルはまた、文化的故郷を持たないゆえに無方言になる自閉者に顕著な行動でもある。
建前を厭い天然を特権化する女のモラルは心と行為の齟齬を非難して、反社会的空想に予防的な化学矯正を強いるようなヴィクトリアンじみた道徳観に達している。映画はキャラクターを次々と劣後させて相対化を試み、その中で女のモラリティはやくざのような嗅覚で男の負い目を暴き立てる。
中絶を強いた男がニートの子育てを創作の題材にする。創作物は良心の叫びであり作者の言動は一致しないのが当たり前で、一致できるのなら創作の動機がそもそも失われるのだが、女のハイモラルはこれを許容できず、虚業を営むクリエイター全般を糾弾するような調子となり作者の自虐めいてくる。美容脱毛を糧にする女も虚業者の一味である。彼女は現場で医療脱毛を勧め失職し筋を通す。
男の相対化が達せられたのなら、次は彼女自身の番になる。準備段階としてまず職場に自分よりもとんでもない新人が入ってきて、天然を競う争いにおいて彼女は初めて劣後してしまう。
相対化の決定的な契機は女のハイモラルの間隙にある。言動不一致が耐えられないのならロリータコンプレックスは妄想にとどまらず実行されたほうが道徳にかなってしまう。
カウンセリングで降りてきたこの天啓はまことにふざけた叙法で表現される。フレームの右隅に彼女のバストショットが小さくピクチャインピクチャされ、それはやがてせり出し全フレームを圧する。女の内面が発見されたのだ。
隣室から”神の声”で彼女を呼ばわった唐田えりの教義は一種の拝火教であり、混乱した女を焚き火で慰労しながら、虚業者の負い目を肯定する理屈にたどりつく。唐田は分節の力を養うフィクションの効用に着目しているようだ。