とにかく介護問題に属人性を持ち込みたくない。それをやれば被介護者の覚悟や死生観が問われかねない。それを危惧するから病人たちはやたらとケアラーに気をつかう。しかし、猗窩座の介護観には矛盾がある。武力に問題帰結の糸口を見出すアイデアが後に淘汰や自然選択といった着想に結びついてしまえば、けっきょくは被介護者の覚悟を問わずにはいられなくなり、介護問題は属人化する。問題の脱属人化・社会化を試みれば体刑によるマゾヒスティックな社会告発になってしまう。
父の自裁も異なる意味で属人化の試みになっている。彼は病苦ではなく猗窩座の独特の社会告発を苦にして命を絶ち、問題を猗窩座の行動に帰責した。父は自裁によって息子の構想の矛盾を突くとともに、社会化の試みの底にある隠れた欲望を指摘して息子を恐慌させる。属人化への嫌悪は他責の願望にすぎないのではないか。問われているのは介護のやり方ではなく当人の成熟であるから、妻の入水で破綻の目前にあった素流道場はあまりにも都合よくヤングケアラーを手に入れて介護問題をクリアしてしまう。もちろんこのユートピアは現実の参照にならない欺瞞であるからもたない。
炭治郎が直面したのは力への意志が力を損なう矛盾である。強さとは無意識の活用であり、猗窩座とって無意識とは記憶の欠落なのであるが、もはや強さがほんらいの目的を失った今、無意識への渇望は責任の忌避と区別がつかなくなっている。素流道場の顛末は自分の不在に発生した。猗窩座は自分を責めながらも、事件を自分に帰責できない空回りに苦しむように見える。しかし本当は非属人化・他責の欲望が反転して惨劇を引き起こしたのではないか。
属人性への嫌悪は首を失ってもなお自律する身体として具体化する。属人性を回復するべく再生を試みる頭部を体は拒絶する。この憎しみは何なのか。映画は説明台詞と説明回想ではちきれんばかりだ。台詞とカットの間合いは工業製品のように規格化・均一化され、殺陣には始まりと終わりがあるだけで過程が欠落している。これらの症候はすべて作家性の拒絶を意味している。大質量のスタジオワークがその阻害要因でしかない作家性を憎悪し滅ぼそうとしている。
すべては徒労であるのになぜかんばるのか。物語が解決すべき課題を童磨はこのように定義した。女をかき抱いて許しを請う猗窩座がこの課題に応じる。記憶の戻った男は属人化の結果として自責の念に駆られる。ところが、抱きしめた女体の先には子宮が鎮座している。自責は、子宮に回帰して胎児と呼ばれる究極の無責任状態に戻りたい願望にすり替わっている。それは虚無に責任を負うつらみに耐えかね悲鳴をあげる人々の記録であり、彼らに対する同情と連帯の表明である。