景物の情報量には一般文芸のようなコストがかかっている。社会経済の設定がその精密度に追いつきそうもない。現実の社会経済を参照して景物を克明にできる社会時評の利点はときに仇となる。ヒロインの収入は母の介護料に大半が消え、スキマバイトをかけ持ちする日常に彼女の生活は埋没している。しかし、ロボットが普及する社会で介護料が下がらないのは変だ。
過去にロボットの文明を築き上げた社会は、農地の生産性を上げるために役畜を棄てた日本の近世社会のように、奇妙な退行を見せている。街角や砂漠では破棄されたロボットたちが徘徊し、人間たちは彼らとの距離感をはかりかねている。社会小説の気分が社会経済に優先して労働集約の背景には具体的な言及はなく、グローバリズムへの明確な好悪をともなわない言及だけが集約化の原因をぼんやと説明している。隊商たちの視点がヒロインと物語の尺を分かち合うように、グローバリズムへのスタンスはその実態の観察に比重がおかれ、現代の政治SFに見られる辛辣さとは距離をおいている。
ロボット文明を後退させたのはおそらく流通に好感を示す物語の価値観なのだろう。
古来の経済史観は交易の民と職人を対立させてきた。職人にとって商人は生産物を左右するだけで利潤を得る詐欺師であった。貿易商人には国内の製造業を排除する動機が常にあった。国産品は海外交易を不要にするからだ。物語が観測するのは製造業の文明に圧迫され砂漠に追いやられた交易民の自意識であり、ロボットは製造業の精華と目されるから、物語の恣意は彼らを退行させずにはいられなくなる。
敗残した交易の民にとって職人たちは今や憎悪の対象ではなく、はるか彼方からマスプロダクトを送り込んでくる東アジアが謎めいた文明に見える。ヒロインが地上で介護負担にあえぐ一方で宇宙植民が進行しつつある社会経済のあり様はガンダムのコロニーなみにシュールだが、宇宙工学が職人文明の最たるものと解釈すれば出鱈目にも意味はある。砂漠の町と東アジアの対比が太陽系スケールに拡張されているのだ。
物語は、交易民の鬱屈を通して物を作らない人間の負い目にアプローチし、だからこそ廃棄されたロボットの自意識に気をやってしまう。住民とロボットたちとのフワフワした距離感には、的屋の寅次郎が旅芸人の一座に寄せるような連帯と淡い憧憬があるのだろう。概していえば、物語の課題は非生産性を肯ずる理屈の探索にあり、その営為はときにテラーアーティストなる職業を発明して戦争を社会的文脈から切り離しながら、ロボットたちを信仰という最大の”非生産活動”へと導くことだろう。