過去の解釈をめぐり男女の間でずれが生じている。女がとうに終わらせた恋が男には今そこにある危機であり続けた。そのすれ違いこそ秒速の妙なのだが、この設定は後続作に課題も残した。原作では明里の真意を不明瞭にしたため、男を振った彼女が残虐なヒロインに見えてしまう。後発作品は明里を冷淡なマドンナ像から救うために、明里の内面に立ち入らざるをえない。いまひとつの課題が、関係が疎遠になった経緯の説明である。男に想いがあるのならなぜ交渉が途絶えたのか。これも説明を要する。
明里視点の主題化にはジレンマがある。等身大の明里と向き合わねば、彼女の想いを回収できない。ところが、等身大になった彼女はただの人間にすぎず、男の懸想の意味を見失わせる。マンガ版が考案したのは、女の聖性を凍結したままその無念を回収する方法である。明里の無念は男女の間にまたがる集合無意識の底に眠っていたのだった。
疎遠になった理由については、マンガはインポ説を採用している。キャリアに挫折して男は自信を失いインポになったのである。
映画もとうぜんこれらの課題に取り組むのだが、出だしから等身大の明里が躊躇なく登場し雲行きは怪しい。紀伊国屋でバイトする明里はただの人にすぎず、聖性は徹底的にはぎとられタカキくんの巨大な思慕に釣り合わなくなっている。原作の明里にとってタカキくんとの過去は遠い思い出にすぎない。映画の明里は日常の一部になるほどその思い出を引きずり残虐度はずいぶんと薄まっているが、両想いになっているのなら破綻の理由がわからなくなり、そもそも恋のすれ違いが成り立たない。原作ですれ違いの起源となったのは「タカキくんはだいじょうぶ」であった。映画はその告別の辞を無音にするのだ。
映画にもすれ違いとインポの痕跡はある。映画では岩舟の桜の下で奇妙なる約束が交わされる。ダメな人になっていたらこの桜の木で待つとタカキくんは提案する。逆ではないかと思うが、ダメな人へのこだわりはインポ説の痕跡である。かくして、大人になってダメ自認になったタカキくんは岩舟へ向かう。六都科学館でタカキくんの消息を知った明里は、彼はダメになっていないと判断し東京にとどまる。インポ説をベースにすれ違いが成立する。
プロットにとどまらず演出の巧緻においても映画は原作とマンガに遠く及ばない。花苗が後発になるほどかわゆくなるのが秒速ユニバースの特色であり、森七菜の演技力がたたってすさまじい媚を達成した映画の花苗には、もし彼女がクラスメイトであったならば俺の知的雰囲気にイチコロだらうと全宇宙の文系の鼻腔を膨らませて余りあるものがあり、この種子島を永遠に見ていたくなるのだが、しかし、このがんばりに比して演出が弱い。モノローグに依存しないのなら尺を存分にとって花苗の思慕をネットリと練り上げるべきだろう。この間合いを欠いては「やさしくしないで」が唐突に見えてしまう。
新海誠のセックスはさぞかしネットリしてるだろう。映画は全般的に早漏である。
明里を聖別したのは雪中の電車に閉じ込められたタカキくんの焦燥である。映画はここでもタカキくんを追い込む尺に不足して、原作の粘着感は霧散している。駅舎での再会もカジュアルになり明里の聖別は頓挫する。制作の事情を邪推すれば、まさか一般興行で原液を飲ませるわけにもいかず、今回の明里には男の気配もなく、映画は岩舟にやってこなかった程度のソフトライディングで終わるのかと油断してしまったのである。こうして地獄のふたが開いたのだ。トラウマと向き合う刻がやってきたのだ。稚拙に思えた時点で敗北なのである。明里の具体化は稚拙の産物ではない。今回の彼女には婚約者はいないと思わせ油断を誘う壮大な罠なのだ。
明里は桜の木にいなかった。これは予想とたがわない。むしろ、いたらどうしようかと心配するくらいだ。とうとつに場面が都下の歩道橋にとんで、大質量の小惑星が地上を襲う。原作では明里婚約の情報は真綿で首をしめられるように浸透していった。映画の早漏演出はそれこそ小惑星の激突のように開示するのである。
原作通りなのになぜこれを予期できなかったのか。秒速信者であれば狂信者ほど血眼になって明里の薬指をガン見して、そこに指輪の気配がなければ、「ふむ」と残念な風を装いながらも安堵の息を漏らすのである。タカキくんとの思い出が日常の一部にまでなっている設定も、明里にとっても岩舟の一夜は今そこにある危機であり、引きずっているわけだから男はいまいと油断させてくれる。日常の一部とはありふれてどうでもいい的なニュアンスだったのだ。
小惑星の正体は、女にはつれあいがいると知った男が女の媚態を誤解した自分をさとる、人類開闢以来男たちが被ってきたあの失意である。原作のタカキくんは踏切で明里の拒絶されて、明里が自分の妄念におさまらない意思をもった独立した人間だと知り、長い思春期を終わらせた。映画の受け手はタカキくんが踏切で受けた衝撃をその身をもって追体験できる。
ラストで残虐なマドンナと直面する映画は初期『男はつらいよ』に近く、吉岡秀隆の登板には正当性がある。映画の明里は疑わしい語り手であり、あけっぴろげになった内面はフェイクであり、本当の内面は見えていなかった。映画は明里を残忍なマドンナ像から救うどころか、恐怖映画の効果を狙い逆方向へ舵を切り、明里を怪物化して見せた。いちど桜の木で明里の拒絶表明をしておきながらあらためて小田急の踏切をやるサディズムはもはや意味不明であり、告別の辞たる「だいじょうぶ」を最後にかぶせてくる構成も酸鼻である。
等身大の自由意思をもった明里に直面して原作のタカキくんは成熟の痛みを知った。明里を怪物化して真意を不明にした映画はむしろ童貞観念をこじらせて終わっている。野坂昭如は高畑勲版『火垂るの墓』の冒頭を見るや映画館から駆け出した。新海誠はこれと同じ恐怖を覚えたことだろう。
