辺境で自活しながら国家転覆をたくらみ火器を貯蔵する宗教コミューンのモチーフはのちに現実化したわけだが、妄想を交えて考えれば、それは予言の自己成就ではなかったか。当時の小学校の読書階級にとっては四書五経的なシリーズであるから、現実の事件の謀議にかかわった人間たちに何らかの感化があったとしたらどうか。もっとも、本書の初出は首謀者たちの幼年期とはずれてしまうのだが。
今回、本書を手に取ったのは幼年期のトラウマと向き合うためである。当時はカルトにたいする嫌悪と恐怖しか残らなかった。とくに村の駐在にまで教団の手が及んでいる設定がいやだった。十数年ぶりに読み返して印象は変わった。教団は一方的にヴィランとはされず、人々が帰依にいたった動機の解明を通じておこなわれるのは現代社会の相対化である。相対化の核となるのは自由恋愛社会のつらみだ。
青年は恋愛弱者である。ドライブに誘った女性たちにことごとく拒否られた彼は、近所の子どもをともない遠出して、帰路の山中で謎教団に拉致られる。教団はコミューンの女子勢(みなかわいい)に婿をあてがうために彼らを誘拐したのである。わたしの感想は「おれをさらえ」である。
これは強引な設定ではある。自活志向とはいえコミューンは完全にはクローズドではなく、在家信者に支援され交流もある。そこから人の備給があるのが自然だろう。在家にはそれなりの規模感がうかがわれる。以下のようなくだりがある。
「時節がくればわれわれは都の攻めのぼるつもりじゃぞ」
「ちょっとむりじゃないかな。この国には警察も自衛隊もある」
「なあに、里方の役人のなかにも、われらに心をよせるものはおおぜいいるからな」
さらわれた青年は自己決定権を欠いた共同体社会に安らぎを覚えるようになり、コミューンのカワイイ娘と恋仲となった段階で村に残留する意思を固める。
現代社会の相対化戦略は、教祖である土ぐも様(若い美女)のカリスマ造形に多くを負っているのだろう。彼女には共同体の限界が客観視されていて、旧劇のグリーンヒル大将のように私学校の若者の暴発を管理するために神輿にかつがれているようなノリがある。客観視や諦念があるから少年たちを村から逃がそうとする。
女のひとはさみしそうにわらった。
「おまえの顔にかいてありますよ。母上や姉ぎみに会いたいって。おまえは父親がいないのね。でもあたたかな家庭で育っている」
女のひとは、ふっと岩山のほうに目をそらした。
「おまえたちを、この谷にまねきよせたのは、まちがいだったかもしれぬ」
わたしの鼻の下は地につかんばかりにのびているのである。
考えてみれば、客観視のアピールもプロファイリングも勧誘テクの常套であり、それに感応したわたしの鼻の下は帰依のプロセスを追体験させられているのである。