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存在が花する

中世哲学入門 ――存在の海をめぐる思想史 (ちくま新書 1734)正義はあると想定するのはよいとして、そこで人の数だけ正義があると言ってしまうといかにも弱々しく正義らしくない。唯一無二でなければ正義の感じがしてこない。


現実は多様な相を抱えるために、正義が実際に施行されると各々状況に応じて正義は分裂して単一性を保てなくなる。正義の相対視には理由がある。ある現場で作動した正義は時に別の状況では効果を持たなくなる。富は心配を招くかもしれない。長寿が長い悲酸になるかもしれない。


現場では様々な形で目撃されながらそれを単一だと認識できてしまう。神学者たちの興味を惹くのは、正義のそのあり様と発現のメカニズムである。


正義はひとつしかないと措定する世界観からは次のような設定が派出する。

  • あらゆる課題には対応する答えがある。正義は答えを知っている。
  • 無数に現実に応じた無数の解答があるわけだから、具体化する前の潜在的な正義にはあらゆる答えが包蔵されている。

複雑な現実がもたらす選択肢は無限に見える。しかも正答が別の状況では誤答になりかねない。潜在的な正義はあらゆる真理を含む必要があるため排中律の適用を免れる。無限に上る真理を収容するためにその容積は無限であり、空間と時間の限定を受けない。正義を実効化・具体化させるのは無限と有限を媒介するメカニズムである。


「存在が花する」の花とは現実化・具体化の意味であり、存在(正義)が発火的に現実化する様を捕捉している。正義を具体化するのは人の知性の働きである。文節をもたない無規定の様態を言語によって分節化して時間と空間による規定を与え現実化するのが知性である。人は正義を無規定性の海から抽出して事物(行為)の中に構成しようとする。あるいは事物の持つ規定性を利用して正義に具体的な形を与えようとする。狭い場所を忌み嫌い暴れようとする概念を展開し長い言葉として述べ広げることが言葉の守り人(哲学者や詩人)の仕事なのだ。


あらゆる想定を含む潜在的正義にとっては事態は必然でありすべては予定されている。知性の働きから見れば正義の現実化するプロセスは自動化されていない。誤答は常に可能であり正答を現実化する方法にも古来から諸説ある。


認識と存在は互換するとヘーゲルは考えた。正義は必然の過程だから状況に直面さえすれば自ずと答えは導かれる。彼にとって知性の課題はありのままの現実を捕捉する方法に集約される。それは何か。道元はいう。


「自己をならふとは、自己をわするるなり」


現実のありのままの受容を妨げるのは予断である。予断をフィルタリングする効果を道元は忘却に見出し、ルソーは制度設計の課題とした。人々が徒党を組まず分散して利害を突き合わせると個々人の利害は希釈され「答え」に到達する確率が高まるのではないか。


正義は排中律の成り立たない相であった。「である」「でない」のいずれでもない領域である。この無現の相を有限に媒介するために知性は「である」と「でない」の間に「ありうる」という次元を設定した。これが意志や自由と呼ばれる現象の起源であり、正義が現実化するプロセスが必然化しない理由である。意志が無限の有限化に関わるのなら、それは時間と空間の出生にも関与するであろう。