無意味に耐える技術

世界の名著 81 近代の藝術論 (中公バックス)描くために見るのではなく、見るために描くのである。もしも描けなければ、それは見えないからだ。


描くまではそれが何かわからない。むしろ、それを知るためには描くしかない。初めからわかっているものを作る行為は工学であり、文芸現象ではない。忘れたものを思い出すように、目的なしに始めるべきだ。芸術とは思い出探しであり、時間を押しとどめるために因果を転倒させる行いである。時に流されてはいけない。自動的な反射に身を任せると意識がそもそも生じない。


文芸は現実領有の手続きである。目的のない着手は現実を偏見なしに吟味する手法である。措定された目的は発見すべき現実を汚染する。古人は目的のない始まりを放心と呼び、目的を敢えて忘れるための機械的な活動を勧めた。しかし目的なき活動のイヤさに人は耐えられそうもない。


無意味に耐えなければならない。そもそも人生自体が完結しないと意味づけできない現象であり、現在進行中のそれには意味がない。現実領有は究極的には目的の見えないイヤさに耐える性格の涵養を要請する。人はその技術を人文学と呼び、その究極は古典と呼ばれる。