N・K・ジェミシン『オベリスクの門』

事故で月が長い楕円軌道に放り込まれた。気候変動で文明は崩壊し人類は全滅の危機に瀕している。科学が退化した代わりに核兵器級のサイキックが社会を構成している。『新世界より』を思わせる世界観である。両作とも破壊力ゆえにサイキックが忌避され、能力…

『夜明けのすべて』(2024)

忘れ物を届けた帰路、自転車に乗る松村北斗の場面が不穏である。いかにも事故りそうな感じだ。不穏は場面の尺の長さとカット割りの細かさに由来している。内容の何気なさに丁寧な叙体が釣り合っていない。松村は何事もなくたい焼きを買って帰社する。不穏の…

ゲルマンの太古の森へ

自由都市の発達は農奴制解体の前提だ。自由都市を成立させるのは領主に対抗できる強度をもった王権である。農奴の逃散先となる都市の成立を妨害する動機が領主にはある。王権は領主の軍事力を恐れるが都市を恐れる理由はない。共通の敵が王権と都市を結びつ…

『せかいのおきく』(2023)

接写された人糞に柄杓がインサートされ粘着音を立てる。意図過剰のイヤらしいカットだが、人糞に対峙する池松の険しさは笑いである。これは池松の徳操を観測する話なのだ。 彼の徳は寛一郎を放っておかない。厠で二人は雨宿りする。黒木華もやって来て雨宿り…

カレー考

調理に際し重さで具材の分量を割り出すと味が決まりだすので計量に病みつきになる。 自炊を始めた当初はハカリを持たなかった。味噌汁のみそは200mlにつき大さじ一杯であり、重さを知らなくても作れる。ダシはそうもいかない。100mlにつき3gの煮干しでダシが…

『枯れ葉』Kuolleet lehdet (2023)

職場に潜む不穏はことごとく気品ある顛末に至る。女に向けられる警備員の視線はセクシャルだが、彼が女にもたらすのは暴力的ではなく社会的な災厄である。バーの裏口で薬物の売買を女が目撃して不穏が仕込まれる。確かに累は女に及ぶが、警備員の件と同様に…

キム・スタンリー・ロビンスン『未来省』

炭素の固定と引き換えに発行される仮想通貨が登場する。作中ではカーボンコインと呼ばれる。土地に炭素を吸収してコインを得ようと試みる農民の話には次のような文章が出てくる。 「小作農の尻をたたいて木や多年生植物を植えさせた」 作者は左派の人である…

『1秒先の彼』(2023)

清原果耶がドン臭いカメラ女子やっても地味子にはならないだろう。写真部は果耶ひとりだけというが、サークルクラッシュの痕跡じゃないか。この人は然るべき場所に放り込めば入れ食いになると思わせるから、片思いの切実さからは程遠い。 偶然の濫用も筋の品…

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)

男は美女の媚びに感応できなかった。去勢された男の諦念が彼を不能にしている。自分は彼女の器ではない。自身の去勢感を男はそう表現する。たとえ一緒になったとしてもやがて経済力の壁が二人の間に立ちはだかるだろう。娘は甲斐性のない男に醒めるであろう…

マイクル・コニイ『カリスマ』

「わたしを知ってるのね」と女はいう。記憶はないがその自覚はある。女には自分を取り巻く構造に自覚があり、その自覚が男を惹きつける。 女と再会した男は、この宇宙にはあの女はもういないと悟る。女の記憶が多元宇宙を渡り、男はそれを追いかける。しかし…

『窓ぎわのトットちゃん』(2023)

ある文明が滅びようとしている。文明と文明の狭間にできた真空地帯で帰農する少女が目撃するのはチンドン屋の隊列である。彼らは滅びゆく文明の徴標である。少女はまさに文明の終わりを目撃しているのだが、大人の利害関係に疎い彼女には文明の終焉が解るは…

碇ゲンドウ

わたしは三石琴乃を狂愛するがミサトさんは嫌いなので、彼女に尽くす日向マコトの趣味がわからない。わからないから『新極妻』の本田博太郎のように自分のナイト振りに酔ってると解したくなる。航空戦艦らしい屈折といえばいいか。 旧劇の人類補完計画で媚び…

ヘレニズム概観

ヘレニズムとは都市国家の体現した生活様式である。都市国家の生活に順応する者は誰であったにせよ、その素性と背景が何であったにせよ、ヘレーンとして受容された。へレーンは都市国家そのものを宗教として信奉した。 紀元前1100年頃、欧州大陸からエーゲ海…

『さよなら歌舞伎町』(2015)

勤務先のラブホでAVのロケがある。ピザを届けにいった部屋でメイク中だったのは妹だった。その晩、大森南朋が枕営業の女を連れてきた。同棲相手の前田敦子だった。 偶然を濫用してはばからないこの蛮力は何事であろうか。しかも染谷将太がAVに身売りした妹を…

『首』(2023)

プルタルコスにはギリシアの少年愛が理解しがたかったのだろう。対比列伝には違和感を抱えながらもそれを強いて理解しようとする痕跡が方々に見受けられる。ローマの時代には良家の子弟は固くガードされ、少年愛は専ら奴隷を対象とした。少年愛にとどまらず…

ヘンリー・カットナー『ロボットには尻尾がない』

発明家を振り回す無意識には二つの作用がある。 発明は常に無意識のなせる業である。気づいたら用途不詳のガジェットが目前に鎮座している。使い道を探るミステリーは自分の無意識と出会う話でもある。 無意識は発明者個人だけではなく、誤配の形で社会にも…

産業革命の条件

Allen(2009) の説では、高賃金と安い燃料の組み合わせが産業革命を引き起こす。不足する労働力を機械で置き換えようとするインセンティヴが生じるのである。石炭はブラタモリの範疇であるからここでは追わない。検討すべきは高賃金をもたらした人手不足の理…

『あちらにいる鬼』(2022)

あくまでテロップで60年代と言い張るのである。車窓を過ぎていくのは現代感丸出しの電柱である。トヨエツは嘆じずにはいられない。曰く、自分の居場所がわからない。三池映画のような無国籍の町に放り込まれたのだから、彼のIDクライシスは尤もである。ID危…

『ゴジラ-1.0』(2023)

怪獣映画の出ない怪獣映画作家としての黒沢清を再確認させられた。『カリスマ』(1999)と『スパイの妻』(2020)で役所広司と蒼井優は炎上する街を前にして怪獣と化した。『シン・ウルトラマン』には『散歩する侵略者』(2017)の気配が濃厚だった*1。『ゴジラ-1.…

エルヴェ ル・テリエ『異常【アノマリー】』

設定はループ・なろう物に準じている。3ヶ月後に飛ばされた人々が、3ヶ月後の自分と対面するのが筋である。未来に行くのだから‟なろう”にはならないはずだが、3ヶ月後の自分の視点に立てば、僅かばかりとはいえ未来を知っているために、3ヶ月過去の自分に助…

実存開明

どうも私には今の私が本当の私だとは思われない。私が私自身に至っていない気がする。しかし、なぜ私は私自身になりたがるのか。どうやったらそれになれるのか。そもそも私自身とは何か。 本当の私である私自身を目指す運動は、スコラ学者を煩わせた神学論争…

『すずめの戸締まり』(2022)

幼女が常世をさまよう冒頭は「コスモナウト」の援用だろう。コスモナウトの冒頭では、タカキ君が明里の幻とマヨイガでデートする様子が活写された。幼いすずめもマヨイガ酷似の曠野に迷い込んでいる。顔を上げるとその先には明里っぽい人影がある。わたしは…

『余命10年』(2022)

『ヤクザと家族』(2021)の舘ひろしは、ナメクジのような表情と声音の展性でオヤジのナルシシズムをねっとりと演じ、館内を爆笑の渦に叩き込んだものだった。しかし、後半で死病に至ってしまうと、ナルシシズムの粘着的な間の取り方が老人の生理とかみ合って…

貴志祐介 『新世界より』

瑕疵のある設定にはふたつの可能性を想定してよい。真正の瑕疵なのか。作り手は承知の上で瑕疵を設けたのか。 本作で問われるのは作り手の人権観である。 人間が巨大なネズミをエッセンシャルワーカーとして使役している。遺伝子を組み替えられたネズミの知…

ヘレニック社会とマルサスの限界

ヘレニック社会の拡大が始まるのが 800 BCE 以降である。従前のギリシア諸国民はそれぞれの領土内で国内消費用の作物を生産していた。この自給自足モデルを脅かしたのが増加の一途をたどるへレスの人口である。諸国はそれぞれ異なった方法で食糧難に対応した…

トインビーのインテリ観

インテリゲンツィアと呼ばれる社会階級は文明の遭遇によって創造される。威圧を受けた社会が攻撃者の文明を受容して生き残りを図る際に、インテリゲンツィアは彼我の橋渡しをするために誕生する。彼らは、侵入してきた文明の遣り口を習得する一種の連絡士官…

オクテイヴィア・E・バトラー 『血を分けた子ども』

状況がわからない。少年の家族とメスのエイリアンが数十年に渡り交流している。異星人は少年の健康にやたらと気をやる。少年にベタベタする彼女は母の警戒を呼んでいる。パターナルな異星人の印象はよろしくない。 世界観はイシグロの『わたしを離さないで』…

一般意志

ハンターはクマをOSO18と知らずに駆除したとみられる。OSO18は標茶町や厚岸町などで2019年から少なくとも牛66頭を襲ったとされています。 【速報】OSO18駆除と判明 釧路町でハンター駆除のクマ DNA鑑定で特定 知らずに駆除か - ライブドアニュース …

正統性を調達する

前近代のイスラム社会では法曹が行政に参与した。裁判官と民生委員を兼ね、徴税をして公共工事を監督した。開戦するとき、前例のない政策をおこなうとき、いかなる行為がイスラミックなのか、カリフは法曹に相談した。 行政に関与する法曹はアメリカの弁護士…

『ハッピー・デス・デイ』 Happy Death Day (2017)

共感のためにまず誰かを憎まなければならない。キャンパスを割拠する諸文化圏はことごとく揶揄の対象だが、憎悪の中心にあるのは全てを見下すソロリティであり、そこに属するヒロイン自身である。しかしこのアバズレはヒロインであり、憎むわけにはいかない…