『夜明けのすべて』(2024)

忘れ物を届けた帰路、自転車に乗る松村北斗の場面が不穏である。いかにも事故りそうな感じだ。不穏は場面の尺の長さとカット割りの細かさに由来している。内容の何気なさに丁寧な叙体が釣り合っていない。松村は何事もなくたい焼きを買って帰社する。不穏の予兆ではなく心境変化を追うために長い尺は使われていたのだった。ところが、勘違いされたはずの予兆は後を引いてしまう。次に自転車に乗る機会が訪れると、松村は不穏に呼応するかのようにヘルメットを着用する。ヘルメットは社長である光石研の興味を惹き、彼は被ってしまうばかりか、着用のまま弟の位牌に手を合わせる。忘れ物を届ける途上できつい坂を前にして逡巡する松村のカットも変だ。高欄の向こうから響いてくる新幹線の通過音が亡霊の声のように不穏である。絵と音の解像度がかみ合わないのだ。粒子まみれの16mmフィルムの質感に比して音声がクリアすぎる。夜明けは来ない方がいいと光石の弟は不穏当な発言を遺している。音声と和解するために荒れた質感は闇によって隠蔽されるべきなのだ。叙体のバランスを恢復させる運動は地震を引き起こし停電の闇をもたらす。

この地上は危殆に瀕している。絵から屹立した音によって宇宙はバランスを失おうとしている。最たる元凶が上白石萌音である。『岩合光昭の世界ネコ歩き』の狂信的視聴者であるわたしは冒頭の再帰構造におののいた。上白石が猫ではなく自身の症状をネコ歩きの語り口調そのままに解説している。


再帰構造から逃れるべく遍歴を重ねた彼女がプラネタリウムのメーカーにたどり着くのは正当である。事は宇宙の構造に関わるのだ。

ネコに対する岩合光昭の気色悪いパターナリズムは作中にあっては侵略する母性として現れる。荷物を送り手袋を編み警察署に迎えに来て娘の自立を損なう母である。心療内科に付き添い保護者面をむき出しにする藤間爽子である。不安を呼ぶほど善人しかが出てこない、作りごとめいたその地上は母と女を次々とパージする。善人の王国の中心に座するのは栗田科学の社屋である。そこにおいて無神論者の弟はパージの最たる対象なのであったが、どれだけ追放を行おうとも新幹線の走行音のように宇宙の裂け目から不穏が零れ落ちてしまう。

上白石の造形には前作の岸井ゆきのに増して作者の嗜好が投影されている。この愛すべき奇人はよく物を食う。松村宅で筒ポテチを平らげ、初詣の帰りに路上で蜜柑を摂食する。しかし癇癪が愛らしい垂れ目を岸信介の怪貌に変えてしまう。バランスを失した宇宙が愛玩動物を妖怪へ変貌させる。

岩合イズムも油断すれば襲ってくる。相手の障害によって劣等感から解放されると知った二人は、マウントを取ろうと互いに世話を焼き始める。光石と上司の渋川清彦も去勢感を抱えた大人たちである。上白石らに発揮される彼らの善は去勢感に由来してはいまいか。母が手袋に執着するように、上白石のはまり込んだ再帰構造を織り上げるのは負の連帯であり、そこから人々を解放しようとする自死した弟は小津的な死者である。小津的死者とは、死人である自分を究極の弱者に措定して、敗戦によって集団去勢された生者を解放する人物である。弟は神を信じない。起伏のない無感情なその声はフィルムの荒れた質感と叙体的な和解に至る。プラネタリウムのナレーション原稿は弟の遺した声が原案となる。上白石はナレーターとなってネコ歩き本来の世界観に立ち戻り再帰構造を脱する。

弟の無神論は自閉に由来するのだろう。その声には自閉の劣等感はなく誇らしげである。彼には確信がある。無感情によって俯瞰視された宇宙ではあらゆるイベントが等価に見えている。すべてに意味があるのだ。この自閉にも上白石と松村の人生にも。

負の連帯から解放され善人の王国を後にした上白石は今度は自分がネコになる。社員たちはホームムービーの上映会をやる。神妙な面持ちでラジオ体操する上白石の姿は愛玩動物そのものだ。最後には社屋も第三者の遠景に納まり俯瞰視される。昼休みの喧騒の様子がまたしても不穏である。16mmの解像度がスクリーンへのブローアップに耐えられず、人々が黒沢清映画の亡霊のように形姿を揺らめかせている。これを見たことはある。ピーター・ジャクソンの They Shall Not Grow Old である。16mmフィルムは善人の王国を死者の国と定義し、叙体の亀裂を然るべくする。死者の王から身を守るために光石はヘルメットを被ったのである。

キャッチボールに興じる男たち。暴投された球は画面の手前に転がってきて、球を追って男も駆け寄ってくる。ぼやけた形姿が急に明瞭になる。墓場から使者が蘇ったイヤさがある。