映画

『夜明けのすべて』(2024)

忘れ物を届けた帰路、自転車に乗る松村北斗の場面が不穏である。いかにも事故りそうな感じだ。不穏は場面の尺の長さとカット割りの細かさに由来している。内容の何気なさに丁寧な叙体が釣り合っていない。松村は何事もなくたい焼きを買って帰社する。不穏の…

『せかいのおきく』(2023)

接写された人糞に柄杓がインサートされ粘着音を立てる。意図過剰のイヤらしいカットだが、人糞に対峙する池松の険しさは笑いである。これは池松の徳操を観測する話なのだ。 彼の徳は寛一郎を放っておかない。厠で二人は雨宿りする。黒木華もやって来て雨宿り…

『枯れ葉』Kuolleet lehdet (2023)

職場に潜む不穏はことごとく気品ある顛末に至る。女に向けられる警備員の視線はセクシャルだが、彼が女にもたらすのは暴力的ではなく社会的な災厄である。バーの裏口で薬物の売買を女が目撃して不穏が仕込まれる。確かに累は女に及ぶが、警備員の件と同様に…

『1秒先の彼』(2023)

清原果耶がドン臭いカメラ女子やっても地味子にはならないだろう。写真部は果耶ひとりだけというが、サークルクラッシュの痕跡じゃないか。この人は然るべき場所に放り込めば入れ食いになると思わせるから、片思いの切実さからは程遠い。 偶然の濫用も筋の品…

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)

男は美女の媚びに感応できなかった。去勢された男の諦念が彼を不能にしている。自分は彼女の器ではない。自身の去勢感を男はそう表現する。たとえ一緒になったとしてもやがて経済力の壁が二人の間に立ちはだかるだろう。娘は甲斐性のない男に醒めるであろう…

『窓ぎわのトットちゃん』(2023)

ある文明が滅びようとしている。文明と文明の狭間にできた真空地帯で帰農する少女が目撃するのはチンドン屋の隊列である。彼らは滅びゆく文明の徴標である。少女はまさに文明の終わりを目撃しているのだが、大人の利害関係に疎い彼女には文明の終焉が解るは…

『さよなら歌舞伎町』(2015)

勤務先のラブホでAVのロケがある。ピザを届けにいった部屋でメイク中だったのは妹だった。その晩、大森南朋が枕営業の女を連れてきた。同棲相手の前田敦子だった。 偶然を濫用してはばからないこの蛮力は何事であろうか。しかも染谷将太がAVに身売りした妹を…

『首』(2023)

プルタルコスにはギリシアの少年愛が理解しがたかったのだろう。対比列伝には違和感を抱えながらもそれを強いて理解しようとする痕跡が方々に見受けられる。ローマの時代には良家の子弟は固くガードされ、少年愛は専ら奴隷を対象とした。少年愛にとどまらず…

『あちらにいる鬼』(2022)

あくまでテロップで60年代と言い張るのである。車窓を過ぎていくのは現代感丸出しの電柱である。トヨエツは嘆じずにはいられない。曰く、自分の居場所がわからない。三池映画のような無国籍の町に放り込まれたのだから、彼のIDクライシスは尤もである。ID危…

『ゴジラ-1.0』(2023)

怪獣映画の出ない怪獣映画作家としての黒沢清を再確認させられた。『カリスマ』(1999)と『スパイの妻』(2020)で役所広司と蒼井優は炎上する街を前にして怪獣と化した。『シン・ウルトラマン』には『散歩する侵略者』(2017)の気配が濃厚だった*1。『ゴジラ-1.…

『すずめの戸締まり』(2022)

幼女が常世をさまよう冒頭は「コスモナウト」の援用だろう。コスモナウトの冒頭では、タカキ君が明里の幻とマヨイガでデートする様子が活写された。幼いすずめもマヨイガ酷似の曠野に迷い込んでいる。顔を上げるとその先には明里っぽい人影がある。わたしは…

『余命10年』(2022)

『ヤクザと家族』(2021)の舘ひろしは、ナメクジのような表情と声音の展性でオヤジのナルシシズムをねっとりと演じ、館内を爆笑の渦に叩き込んだものだった。しかし、後半で死病に至ってしまうと、ナルシシズムの粘着的な間の取り方が老人の生理とかみ合って…

『ハッピー・デス・デイ』 Happy Death Day (2017)

共感のためにまず誰かを憎まなければならない。キャンパスを割拠する諸文化圏はことごとく揶揄の対象だが、憎悪の中心にあるのは全てを見下すソロリティであり、そこに属するヒロイン自身である。しかしこのアバズレはヒロインであり、憎むわけにはいかない…

『殺さない彼と死なない彼女』 (2019)

てよだわ言葉で観念的な恋愛論を交わすきゃぴ子と地味子を捕捉するのは望遠の狭い画角である。舞台調の芝居と台詞がリアリズムの叙体から浮き上がり、きゃぴ子の課題を空論に終始させる。木造二階建てアパートの扉を開けると彼女の自室がある。その作り込ま…

『シン・仮面ライダー』 (2023)

用意周到な人がそう自称するのは用意周到ではない。万が一ドジったときの見栄えを考え、この手の人は自分に対する期待値を下げてくるのではないか。 コウモリオーグの件で用意周到の割にルリルリが役に立たないのはフェイントだが、後々、真正のドジを踏んで…

『ジャッジ!』 (2014)

業界に対する態度も‟日本スゴイ”の用い方も自嘲がベースにある。おたくの文物をあがめる非日本語話者らの態度はカリカチュアライズされ、おたくごときを聖化する程度の低い人々として彼らを侮蔑している。彼らが属し自分を虐げる業界を侮蔑したいからである…

『ラーゲリより愛を込めて』(2022)

筋を引っぱっていくのは人の負い目である。人の性能の高さは彼から本源的な悩みを見失わせる。 高い性能にはそれに応じた語り口がある。二宮は超人だから悩みの捕捉を試みても徒労である。性能が発揮される場を設定した方が筋は活きる。本作の場合、部活動の…

『イエスタデイ』 Yesterday(2019)

ビートルズなくとも歌謡曲が現行の形になり得たと想定するのならば、ビートルズの影響を過小評価することになりかねない。ビートルズなくともそれを踏まえた楽曲群が存在する世界にビートルズを持ち込んだとしても、劇中ほどのインパクトをもたらせるのか。…

泣訴する父権

所有権とは処分権である。自分が作ったものは自分が処分していい。自殺が禁忌とされるのは、自分は自分の創作物ではないからである。自分の出生に自分は関与していない。自分には責任がない。責任がないから恣にしていいと考えたくなるが、所有権の概念は逆…

『ミスター・ガラス』 Glass(2019)

最初に筋を運ぶのは卑小な感情にすぎない。女性精神科医(サラ・ポールソン)が妄想狂のオッサンたちを収監する。この図式では、キャリアに対するノンキャリの憎悪と女性に対するオッサンの嫌悪が援用され、受け手はサラの退治を願望するよう誘導される。加…

『宮本から君へ』(2019)

前髪ぱっつんのアニメ声。挙措の全てが媚び媚びしい蒼井優が言い寄ってくる。歩く地雷である。その女はいかん早く引き返せと念じていると、さっそく井浦新の闖入に見舞われる。池松壮亮も井浦も女の地雷性を認識している。そのアニメ声がたまらんと身もだえ…

打算と無意識

強欲な南原宏治はマンション価格を吊り上げてくる。地上げ屋の三国連太郎は一計を案じ、懇意にしているホステス柴田美保子に金を掴ませ、美人局を持ちかける。三國の手下が同衾の現場を抑える手筈である。 この一連の場面では柴田美保子が不思議な行動に出る…

『車夫遊侠伝 喧嘩辰』(1964)

発端は情報不全の三角関係であった。内田良平は桜町弘子に一目ぼれする。桜町は曾我廼家明蝶の情婦である。内田良平は彼らの愛人関係を知らない。この無知が最初は強みとなり、のちに悲恋の構造を拡大していく。 内田良平は曾我廼家明蝶の前で恋に悩乱する自…

『ドクター・スリープ』Doctor Sleep(2019)

成人したダニーはユアン・マクレガーとなり、依存症で生活を荒廃させる。これはタイプキャストの笑いであるが、実際にやることは一般文芸に近い。ホスピスには死臭を嗅ぎつける猫がいる。夜な夜な猫は臨終を迎えた老人の足元に上がり、フフンと死にざまを観…

『秘密の森の、その向こう』 Petite maman(2021)

八歳の少女は過去に戻り同い年の母と親友になる。少女は相手が子ども時代の母だと知る。母は相手を将来産むことになると知る。少女が現代に戻ると、大人になったあの少女が暗い部屋に座っている。これは恐怖映画の叙法である。母が亡霊のように見えてしまう…

『愛がなんだ』(2019)

針ムシロのようなパーティーから退散する成田凌。帰宅するなり岸井ゆきのが欲しくなり行為を試みるが勃たない。パーティーでは陽キャラたちの輪に入れず孤立し、意中の女にも相手にされなかった。何よりもその無様を岸井にずっと観察されていた。男の自信を…

哀切のアイロニー

男と楽しく会話を交わす園みどり(可愛い)を街頭で目撃した武田鉄矢はガッカリする。傷心の武田が飲み屋の暖簾をくぐると女将が倍賞千恵子で、これは如何にも出来過ぎていてギョッとする。園は薄幸の女である。実家のリンゴ園は破綻。両親も他界。 武田は嘆…

語りの資源配分

倉田梨乃が園芸部の旧庭で小寺と対話する場面である。梨乃はボルダリングに精進する小寺を羨望している。彼女にはやりたいことが見つからない。それがストレスになっている。 小寺の頑張りが不思議な梨乃は「疲れない?」と尋ねる。カットは小寺のショットに…

フラストレーションから解放される笑い 『マルタイの女』

クレオパトラの舞台が初演を迎える。宮本信子の警護のために西村雅彦はモブのプトレマイオス兵役で舞台に立つはめになる。西村の技量に不満のある宮本は、警護とはいえやるからにはちゃんとしろと西村を叱咤する。実務家の西村は女優という虚業を普段は軽蔑…

『百万円と苦虫女』(2008)

三つのオムニバスそれぞれで問われるのは、不快な相手に対して受け手に好意を抱かせる技術であり、人格発見の古典的な手管である。海の家でナンパしてくる男(竹財輝之助)は不快である。受け手が男を好きになるのは、子どもへの彼の接し方を通してである。…