『宮本から君へ』(2019)

前髪ぱっつんのアニメ声。挙措の全てが媚び媚びしい蒼井優が言い寄ってくる。歩く地雷である。その女はいかん早く引き返せと念じていると、さっそく井浦新の闖入に見舞われる。池松壮亮も井浦も女の地雷性を認識している。そのアニメ声がたまらんと身もだえする。わかっているがどうしようもない。


蒼井の魔性は池松にオス性を発揮させるべく、彼を駆り立て追い込んでいく。当人の意図しない生来の媚態がサイコ男を発動させたのだから、蒼井も自然の犠牲者だが、あえて擬人化すれば、彼女の魔性が池松を一人前のオスにすべく、彼女に体を張らせて災厄を招いたのである。


オス性を充足させた男は安らぎを得る。逆にその欠乏は苦痛をもたらす。蒼井の魔性は欠乏状態を人為的に作り出し、男に苦痛を与える。苦痛を逃れるためにはオスとしての自信を恢復するしかない。


欠乏状態は当人にとって苦痛であるばかりではなく、観察するこちらも状況に感応してアドレナリンの分泌を強いられる。これが苦痛である。


茶店ホモソーシャルは作中で最も文芸観測に値する場面になるだろう。警察なりピエール瀧なり、お上に泣きつけば一ノ瀬ワタルは退治されるかもしれない。しかしそれをやればオス性を充足する機会を永遠に逸する。自ら手を下さねば充足されることはない。池松はこれを正しく把握するから何も話せない。だからといって、自力救済の見込みはない。一ノ瀬もこのジレンマを見越しているから、堂々と蒼井に乗り池松をボコボコにできる。


池松と瀧と佐藤二朗は薄く連帯している。ホモソーシャルが心地いいのは、メスの強いるオス性への駆り立てから解放されるからだ。しかしこれもまた池松が正しく指摘するように、連帯には留保がある。すべての元凶は瀧にある。息子のサイコ性に薄々気づきながら連れてきたのである。にもかかわらず、作者は終始、瀧に同情的である。


ともあれ、オスのジレンマにどう対応するのか、話の課題が出そろったことになる。出される回答はマンガというほかない。武力で解決できるのなら最初から課題にはならないだろう。しかもその成り行きには偶然が大いに寄与している。池松の血反吐が一ノ瀬の視界を塞ぐのである。頑張ればオス性は充足するのだが、偶然の寄与は男の尽力を一発逆転狙いのパチスロや競馬の試みと変わらなくしてしまう。これでは現実生活の参照にはならない。


ではどうすればよかったのか。


同カテゴリーの『ボーイズ・オン・ザ・ラン』(2010)は武力による自力救済を正しく頓挫させている。真の課題は魔性からの解放にあるとボーイズは結論する。池松も冒頭で井浦の襲撃に巻き込まれたとき、逃亡という正しい判断をしたのだが、蒼井の魔性には抗えなかった。


『ボーイズ』は「オスの成長」「魔性からの解放」「メス固有の痛ましさ」のそれぞれを明確に区分しながら、一つの筋に織り込んだ。


モテキ』はこの三つを混交して砂糖菓子のような幻想に落ち込んでいった。


『秒速』は魔性からの解放に全振りした異常作である。


『宮本』は魔性解放が妥当な事象にオスの成長を誤適用したカテゴリーエラーのように見える。