『百万円と苦虫女』(2008)

三つのオムニバスそれぞれで問われるのは、不快な相手に対して受け手に好意を抱かせる技術であり、人格発見の古典的な手管である。海の家でナンパしてくる男(竹財輝之助)は不快である。受け手が男を好きになるのは、子どもへの彼の接し方を通してである。蒼井優が去ると男は落ち込む。本気だったのである。


蒼井は見るからに性能高買い女で、おそらく本人の生来の性質がにじみ出ているのだろう。行く先々で蒼井は高性能を持て余し移動を続ける。性能は具体的には個人主義として具象する。蒼井は個人主義のイデオローグである。


桃農家の長男(ピエール瀧)が挙動が不審である。瀧だから当たり前なのだが、少し足りない感じがする。蒼井はこの村でも高性能を発揮する。その結果として襲いかかる社会的圧を前にして、彼女は個人主義を貫けなくなる。瀧が急場を救い、受け手にその人格を発見させる。拒んだ方がいいと蒼井を個人主義に立ち返らせる。瀧の発見自体は海の家よりも安易だが、その前提となる社会的圧の作り方に芸がある。


ラストの森山未來編は発見サイクルが逆転して始まる。森山の性能は最初から顕示している。何かを彼に発見するとすれば、ネガティブな造形になるはずだ。森山とつき合ってみればヒモ体質と判明する。が、これにはさらに裏があり、性能を発見するサイクルに結局は収束していく。同じサイクルだと先が読めるために詐術がある。否定的だと思われた性質はじつはそうではなく、むしろ当人を高からしめる行為だった。ヒモ体質は誤誘導で受け手が本当に発掘すべきことは別にあった。


が、おかしいのである。これは美談なのだろうか。当人を高からしめる行為なのだろうか。事は当人と話せば済む問題であり、それができないとすればやはり森山には問題がある。蒼井の個人主義に反するように見える。


本作は半ば恐怖映画である。蒼井野の日常パートと並走して弟のイジメが延々と並走する。エスカレーションの気配すらある。


蒼井は弟の窮状を悟って泣く。泣くだけである。この人の気概と性能なら今すぐでも孤立無援の弟のもとに飛んでいきそうだが放置する。苛烈な個人主義が動物や子どもにスパルタ人のような倫理感で対する。蒼井は自分を拘束する個人主義を恨めしく思い泣くのである。


彼女の個人主義は自身に対しても筋を通す。森山との復縁の機会が訪れる。個人主義は土壇場になってその機会を覆すのである。