仮文芸

現代邦画とSFの感想

『くちびるに歌を』(2015)

 紛らわしいのだが、塩田明彦小松菜奈ではなく2015年のガッキーの方である。ツンツンしたガッキーが音楽教師として赴任してくる。これが実に紋きりでけしからん。どうせこのツンツンが生徒との交流を通じて心開くのだろうと侮っていると、実際その通りになる。
 しかし何度も指摘するように、侮った時点で負けなのである。紋きりを敢えてやることで作品に求められる水準が知らぬ間に下がり、受け手に予断がもたらされる。
 ツンツンのステロタイプに対する嘲りを緩和しようとする工夫もある。合唱指導を通じて叙述されるガッキーの機能性がツンツンを受け手に受容させる一助となる。機能性とツンツンを混同させられる。
 デレたらデレたで、デレに対する嘲笑を散らす方策の試みもある。
 ツンツンとはあくまで観察対象であって、心を開かないからその内面は不明瞭である。ガッキーがデレることによって受け手は彼女の視点を獲得する。そこでガッキーは一生徒の才能を発見し、話は少年の階級脱出物に半ばなりかかる。この展開ではガッキーは他人の踏み台になる。
 一方、ガッキー視点への参画が可能になることで、ガッキーの心の傷も発見される。これがまた美事な紋きり展開で、ガッキーは婚約者を事故で亡くして心閉ざしていたのだった。ただ口惜しいことに、故人設定が婚約者にギャルゲ主人公のような匿名性をもたらすので、婚約者=俺という連想で鼻腔が膨張せざるを得ないのである。

 紋きりの中和は概して成功しているように見える。ただ、それは中和に過ぎないのであり、紋きりへの侮りは温存されている。ところが、侮りはむしろ温存されねばならなかった。曲芸のようなリリカル物に見えてはならないのであった。この話の目指すのが曲芸のようなリリカルだからだ。
 かかる予断醸成は曲芸リリカルの爆発寸前まで周到に仕込まれている。ネタ自体は単純である。「誰かが見ていた」である。
 以下、ネタをばらす。
 ヒロインは幼少のころ母を亡くしている。生前の母は娘にある行為を教えている。それは謂わば、古い例で恐縮であるが、『十兵衛ちゃん・ラブリー眼帯の秘密』(1999)の鯉之介笛である。「寂しくなったらいつでも吹くよ、鯉之介さん」である。ラストで母が恋しくなったヒロインは鯉之介笛を吹くのである。
 鯉之介笛のことは知られていない。それを吹いても彼女の孤独は理解されない。しかしガッキーはあらかじめヒロイン当人に鯉之介笛のことを聞いている。したがって、ガッキーだけがヒロインの孤独を知ることになる。
 曲芸を弄さない単純な話の展開に馴致されてきた受け手としては、このシンプルな「誰かが見ていた」の成立が話の帰結であろうと考えてしまう。この油断をついてリリカル曲芸がついに勃発する。「観察の主体=ガッキー」がまず誤誘導である。「観察される主体=現在のヒロイン」も誤誘導である。真に観察する人物が他にもいて、真に観察されるべき対象も別にいたのである。
 ガッキーが鯉之介笛を知ったのは伝聞を介したものだった。ところが、伝聞ではなく実際にヒロインが母から鯉之介笛を渡された場面を目撃した人物が発見される。現在のヒロインよりも幼いヒロインの抱える孤独の方が大きいだろう。過去のヒロインこそ観察され理解されるべきだろう。彼女の孤独は観測されていた。これを知ることが現在の彼女を救うのである。
 ここからリリカル曲芸が更なる展開を見せる。それは『寅次郎純情詩集』がラストでやったリリカルに近い*1
 ヒロインの過去を人知れず目撃していた真の観察者は、初期のツンツンガッキー以上に内面が受け手に閉ざされていた。彼が真の観察者だと判明することで、この人には内面があって人知れず思惟が展開されていたという感慨が生じる。ヒロインである観察対象が感傷の捌口である。これも誤誘導なのであって、最後に到達されるべきとされたのは観察者への感傷であった。「誰かが見ていた」は多重にネスティングされていたのである。