江戸川空間湾曲 『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』

柴又を訪れてみて驚いたことがある。街が小さいのだ。


『純情詩集』の冒頭をここで思い起こしたい。


とらやに帰還すべく、寅が江戸川縁を歩いている。この情報だけを頼れば、柴又の地理について次のような推測が出てくる。柴又駅ととらやの間には江戸川の広漠たる空間が介在していて、駅からとらやまでは距離がある。しかし、この地理感覚は現実に即していない。実際のところ柴又駅ととらやの間に江戸川は介在しない。駅から東にわずか100mほど進めばとらやに到達してしまう。更に東進すると帝釈天に行き当たる。この間、50mもない。帝釈天の敷地に沿って100mほど更に東進すると江戸川縁に出る。つまり、駅ととらやの距離は帝釈天の敷地の長さ分でしかない。駅から江戸川に出るためにはとらやを迂回せねばならず、『純情詩集』の冒頭は不自然なのである。


推測するに、久しぶりの帰郷だから帰宅する前に江戸川縁をあえて歩きたい気分があったのかもしれない。それでもう一度場面を検討すると、寅の後背には首都高6号線の高架が映っており、そこに見受けられる興ざめな交通量がわずかに映画と現実の接点を作っている。江戸川の土手は牧歌的に撮られているが、実際に現場を歩いてみると土手直下の451号線も交通量が激しく、のどかな感じはない。


背後に首都高があるのならば、寅は南下していることになる。では、逆に川を北上すると何があるのか。常磐線の金町かあるいは京成金町に出るはずである。寅は柴又で降りず、江戸川土手を散策するためにあえて一駅向こうの京成金町で降車した可能性があるのだ。しかし、われわれは柴又で降りたと考えるから混乱が起こる。柴又と江戸川の位置関係はかくして誤解釈され、江戸川の広漠さに沿って映画上の柴又の街が膨張するのである。


あえて街を大きく仮構しようとする意図は他にもみられる。駅から帝釈天に至る参道の道幅が映画での印象よりもずっと狭い。映画は現地でロケーションするとき、ローアングルでこの幅を誤魔化すのである。


+++


『純情詩集』は何かを隠す話である*1。マドンナの京マチ子は余命幾ばくもない。この情報は皆が知るものだが、寅にだけは隠される。しかし寅の方でも意図的ではないとはいえ結果的に隠していることがある。


『純情詩集』は異色作だろう。事件はさくらの視点で眺められることが多い。寅は物語から疎外されがちである。寅が皆から隠れてやっていたことが物語の回答となるからだ。


『純情詩集』の課題は明確に設定されている。箱入り娘だった京マチ子は仕事をしたことがない。だから一度でいいから、彼女は何かやってみたいと希望する。とらやの連中はどんな仕事がよいのか頭をひねる。彼女の病態が明かされるとこの課題のはしごは外され、受け手であるわたしたちも課題があったことを忘れるよう誘導される。ところが、マチ子の病気を知らない寅だけが考え続けるのである。物語が本当に隠したいのは、寅が密かに考え続けている、という情報である。さくらの視点に物語を負託せねばならなくなるのだ。


今回本作を少し見返してみた。最後の柴又駅の場面がすばらしい。


マチ子を亡くし、傷心の寅が柴又を発とうとする。見送りのさくらに対して、寅はついうれしそうに吐露してしまう。御嬢さんに似合いの仕事をついに見つけたんだと。さくらとわたしたちは、物語から疎外されてきた寅の人格をそこに見出せてしまう。並行して、あくまで寅の視点を割り込まさないという演出のテクニカルな課題も極限に至る。



この期に及んでも、作品の一貫性を担保するため、語り手はさくらからの視点を外そうとはしない。しかしそれでは、寅の内面が捉えらえないままになってしまう。この矛盾を止揚すべく、フレームは感情を露曝させるさくらを見据えたまま、その片隅に寅の口元だけを残置する。寅の感傷はかくして最後まで現れない。現れないからこそ、無念が伝わってしまう。表現できる感傷は記号にすぎず、信用に値しないのである。