それでも人間でありたい 『監督失格』


この話のオカルト性を決定づけているのは、娘の部屋に現着した母親の反応に尽きると思う。娘と連絡が取れなくなって丸一日が経っている。合鍵でその部屋の扉を開いてみると、異臭が漂ってくる。


母娘は依存関係にある。彼女は誰よりも娘の身を案ずるはずだ。母は中小企業経営者でもある。本作に現れる人物の中ではもっとも機能的色彩を備えている。ところが現場の入口でこの異臭に直面した母は腰が引けてしまう。「怖い」と漏らしてしまう。


最悪の結末の予感は濃厚である。未来を恐れる感覚はとうぜん「怖い」の台詞に含まれるだろう。けれども奇妙なのである。未来への畏怖とは少し性格が違う感情も声色に感ぜられるのだ。彼女は困惑しているのである。現れているのは、より素朴で原初的な死体そのものへの忌諱感に近く、彼女は奥に進むことができない。依存関係があるのだから確認すべく即座に行動を起こすと思われたのに、平野にそれを託してしまう。


平野には躊躇がない。最悪の結末を確認しても、警察を要請する声に乱れがない。いささか頼りなさ気なこの人物は、最愛の女の最期に立ち至ると、母親とは逆に苛烈な現場主義を呈示してしまう。


動揺する母親と奥から出てきた平野の視線が交差する。このとき初めて平野の表情の子細が画面に現れる。彼は、狂いたくても狂えない凄惨な形相をしている。これがすきだ。母は泣き崩れるばかりで何の役にも立たなくなってしまう。


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墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便 (講談社+α文庫)
御巣鷹山の検死場で身元確認の班長だった飯塚訓は人間の類型について興味深い観察を残している(『墜落遺体』)。検死場の体育館には地元の歯科医が動員された。その中にどうしても死体を拒絶してしまう一群の人々が出てきてしまう。この差はどこから出てくるのか。


修羅場に際した母の冨美代と平野の行動の違いは、冨美代の死体への素朴な忌諱感に基づけば、オカルトへの感受性の差から生じるように見える。経営者という職能の合理性と彼女のオカルトへの感受性は一見して相容れない。だが、この両者はそもそも関連がないか、あるいは正の相関があるのかもしれない。


現場への近しさが平野と冨美代の反応の相違を決めたとも解せる。演出家である平野の方が経営者の冨美代も現場という現象には近しく、修羅場対応の熟練がありそうだ。言いかえれば、どちらの職能がこの修羅場に適応していたか。その問題でしかない。


あるいは、事は性差に還元しうるものなのだろうか。臨場した平野に現れた機能性は石器時代の思い出なのか。


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勇敢さの源泉は不明瞭だ。ただ、石器時代の遺構らしき行動は物語の終幕でやはり平野に現れる。


失恋をした男が居たたまれなくなって深夜の街を徘徊する。これ自体はごく普遍的な謎行動だと思われるが、平野にこの衝動が訪れてしまうのは惨劇から5年経ってのことである。


平野は急性腰痛で動けない。しかし謎衝動は襲いかかってくる。


「ちくしょう」


平野のこの叫びがすきだ。彼は事態に激怒している。


彼はこの5年間を無為に過ごしてきた。あの現場で誰よりもオカルトから逃れたはずの彼は、別の形でオカルトに束縛され続けていた。平野はそれに気づいたのである。


深夜の路地に平野の叫びがこだまする。


「早くいけよ、いっちまえ」


死者の分際で人間の行動を制約するとは何事か。平野の個人的な悲恋の物語がこの叫びで一般化する。オカルトへの抗議という普遍的な題材に達する*1


平野は由美香というオカルトから逃れ、前に進もうとしている。なぜ進まざるを得ないのか。それは人でありたいという叫びなのだ。


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犬童版の『タッチ』は、男性視点からすればみじめな話である*2長澤まさみの存在が強烈で、上杉兄弟が彼女の付足しに過ぎなくなってしまう。われわれがそこで体験するのは、好きな異性を前にして男が被ってしまう自分のみじめさである。


ところが、終幕になると事情が変わってくる。長澤はマウンドの上杉兄を見つめる以外に成す術がない。当事者はあくまで兄である。甲子園に行けるのは長澤ではない。


エヴァ』を作っても、み○むーを墜とせなかった。しかしみ○むーには『エヴァ』を作れない。この地獄から救われるには前に進むしか道はないのである。