訣別のための成熟

初のオフ会である。やってきた長澤まさみは様子がおかしい。ニタニタしながら男の躰を触れ回り、媚び声で容貌を褒めそやす。ギャルゲの白痴ヒロインそのままである。これは何であろうか。長澤の媚びは森山未來への好意に基づくのか。それとも彼女は単なる痴女で、誰彼構わず好意を示すだけなのか。長澤の真意は分からず男は悶絶する。彼女の内面を発掘せねばならない。


転機は中盤の手前に訪れる。これまで森山の視点で観測されてきた筋に、突然、麻生久美子の視点が割り込む。麻生は森山に懸想していて、その揺れる乙女心が受け手を彼女の内面に引き込んだのだが、森山は麻生と寝た後、長澤の気を惹くべく麻生と寝たと彼女に漏らす。長澤は動揺しその内面開示が始まる。麻生の内面開示は長澤のそれの呼び水だったとわかる。


しかし、開示されて媚態は好意なのかビッチの産物か判明するのだが、これが身もふたもない。ビッチでした(完)である。ビッチだからフェスで追いかけっこしているうちに何となく情が通じて(完)である。これでは何の解決にもならない。痴女であるから、愛が無差別であるから、その愛は森山のもとにこの先とどまることはないであろう。


作中でも言及されるように、本作は『ボーイズ・オン・ザ・ラン』(2010)の影響下にある。殊にリリー・フランキーの配役はそのままである。『モテキ』はボーイズが果たせなかったこと、その先にあるものを目指したと思われる。つまり、モテキはボーイズが課題を残したと想定する。が、本当にそうなのか。


ボーイズはオスの成熟の難しさを謳った話であった。成熟に至るためにオスはどれほどの血反吐と血涙を要するか。秒速5センチメートルと同種の話である。秒速はとてもオスの成熟の話には見えないのだけれども。わかりにくさはボーイズも同じで、結末だけを見れば男は成熟に失敗したととれてしまう。オスはメスとセックスするために成熟を試みたが、悲恋に終わってしまった。モテキが課題が残ったと考えてしまうのは無理がない。しかし実のところ、ボーイズは課題を解決して自己完結している。女とセックスするために頑張っていたのではない。女と決別するために成熟が必要とされていたのだった。それこそ秒速と同じように。


ボーイズが最後に発見するのは女の内面である。男を散々苦しめた彼女の痴性たる無差別な愛は、女自身を苦しめていた。女には自律性がない。その性は環境依存的で自分というものがない。男は最後に理解する。この女を愛してしまったら、自分も巻き込まれて自律性を失ってしまう。女は自然そのもので人格を持たない。人格のないものを愛せるはずがない。


ボーイズが課題を残したとすれば、女のそれである。未成熟はオスとメスとでは正反対に現象される。未成熟のオスは童貞である。未成熟のメスはビッチである。正反対のようでいて両者とも恐れるものは同じである。DTは求愛を拒まれたくないがゆえに自分からそれを断念している。ビッチは求愛を拒みたくないゆえに無差別に応えてしまう。どちらも他者からの嫌悪に耐えられない。


モテキで課題に直面しているのは、ボーイズと同様に森山ではなく長澤である。半ばモテキはそれに気づている節もある。森山の求愛を拒むとき彼女は嘆くのだ。森山相手では成長できないと。では、メスの成熟はとは何か。いかようにしてそれは達せられるのか。これを扱ったのが『さよならみどりちゃん』(2005)になるだろう。タイトル通り、ここでもまた決別のための成熟が謳われている。


AIR メモリアルエディション 全年齢対象版ギャルゲが白痴ヒロインを好むのには理由がある。痴人の愛は無差別だから無理な好意にも合理性がある。同時にジレンマがある。痴性には惹かれるものがない。理由は散々前述したとおりだ。物語には課題が持ち上がる。痴性でいて痴性ではない現象とは何か。


男は女に声をかけられる。日中から護岸に佇む不審者に声をかける女など白痴に決まっている。事実、そのJKの物腰は痴性そのものである。女は自然に促さられるまま、偶々視界に入った生体に好意を与えたに過ぎない。


実際に女は痴女であった。その痴性ゆえに孤立していた。夏休みが始まろうとしている。今度の夏も独りぼっちだ。もうそれには耐えられない。海辺に佇む男が視界に入る。勇気をもってあの人に声をかけよう。


ここにおいて女は痴性の根源たる環境依存性を脱している。痴性を脱したからこそかえって様態が痴性になってしまう逆説が達成されている。それは女が人となった瞬間であった。