『パーフェクト・ケア』I Care a Lot (2021)

女性主義を邁進するほど逆に女性嫌悪を煽られる構造は意図なのか誤算なのか。受け手であるわたしに原因がないとはいえない。しかし客観的な要件もある。敵対者がホワイトトラッシュと小人症の、いずれも社会的あるいは身体的にオス性を喪失した男たちである。彼らを退治しても弱者いじめにしかならず、嫌悪を誘うだけだろう。何よりもオス性を欠いた相手では、手加減せねば伍せないとなりかねず、女性主義の土台が崩れてしまう。


作者自身もこの話の女性主義が嫌悪を誘うことを自覚している。 ロザムンド・パイクが法廷を出ると、打ち負かしたばかりのオッサンが掴みかかってくる。「女だから襲うのか」と彼女はオッサンに吠えたてる。作者はヒロインに反発する受け手を挑発している。もしこれが女性嫌悪に見えるとしたら、受け手に問題があるのだと。つまり、嫌悪に見えかねないと自覚しているのである。


この自覚アピールは何なのか。言葉通りとれば、女性主義の話をやると宣言している。それとも本音は女性嫌悪にあるのか。女性主義に見せかけるのは商業上の要請なのか。どちらにも取れるから作者の真意をめぐるスリラーが成立する。女性主義映画ならばピカレスクになるだろう。女性嫌悪ならば二人は退治されるだろう。むろん、オス性を喪失した男たちに同化するわたしは後者を望むのである。


ヤクザ犯罪映画の亜種である。「ブツに手を出してしまった」話である。闇社会の地雷を踏んでしまい歯車が狂い始める序盤は、退治を望む身としては愉快この上ない。が、早くも中盤になると雲行きが怪しくなる。刺客は撃退され水没した車からは脱出。民間人の戦闘力をもはや逸脱している。手加減が始まった。退治エンドはなくなったと早々に判明してしまう。


では、弱者男性を退治して終わるのか。それはそれでまずいわけで、女性主義でも嫌悪でもない第3の結末に至らねばならないのだが、やはり納得がいかない。


逞しさの称揚による生命賛歌の含みは大いにある。常軌を逸した戦闘力を合理化するためにも。しかしこの路線はダイアン・ウィーストにお株を奪われている。どんなに虐待されても容儀を崩さないダイアンのダンディズムに。


ピーター・ディンクレイジがその生命力に驚嘆して、手を組むエンドである。事実上、ヤクザの下請けだからミソジニーにも受け入れられるはずだ。が、釈然としない。最後にはとんだ蛇足がきて釈然のなさの正体が割れる。冒頭のホワイトトラッシュのオッサンに路上で刺され、ロザムンドはあっけなく事切れる。ヤクザの幾多の襲撃を耐え凌いだ超人がどうして弱者オッサンの一突きで退治されるのか。この蛇足が手加減を実証してしまうのだ。