「第20回 帰ってきた義経」『鎌倉殿の13人』

サイコを扱うとなれば、サイコの哀れに到達すべきだ。サイコの自意識を発見すべきである。この人生は苦痛であったと。九郎の場合、その自意識が最初に露見したのは壇ノ浦の直前だった。景時に自分のサイコ性を指摘して謝する場面がある。サイコを非属人化して当人から分離し、自分もサイコの犠牲者だったと表白させる。しかし、そもそもそれはサイコなのか。自意識あるサイコとは形容矛盾ではないか。


このはなしは『マーダーボット・ダイアリー』である。『マーダーボット』では人間を装おうとする殺人AIの挙動不審を通じて、ASDの辛みが叙述され、ASDという人生が文芸的に評価された。


このはなしも同じである。小四郎が最後に観測するのはASDの痛ましさである。この期に及んでも鎌倉攻略の構想、つまりオタ話をキャッキャッと開陳してしまう。弁慶最期の奮戦をASD仕草丸出しで観察してしまう。われわれがこれまで観察していたのは、あるASDの生き様だったのだ。


サイコの哀れを抽出する際、物語は九郎の内面に頼っていない。むしろ逆に、当人が愉快であるほど、ASD仕草に忠実であるほど、趣味以外に自分を語る術のない悲痛が露わになる。自意識が欠けるからこそ悲痛になるのだ。


自意識が薄いから当人はこの悲痛を感知しない。これを悲痛と教えてくれるのは観測者の態度である。人生の最期にASD仕草を全開にしてはしゃぐ男を観測する小四郎の表情。頼朝の「がんばったな」。何を頑張ったのか。男はまことに如何ともしがたいASD人生を全うしたのだ。