寺尾文学、男の修行

平時ならばどんな倫理的なこともいえる。倫理的な振る舞いを必要とされないからだ。危急で過酷な境遇に至り、倫理的な振る舞いが現実に要請されると、動物的な衝動が優勢となり、平時に想定していた倫理的な振る舞いを全うできなくなる。だとしたら、平時にいくら倫理的大言を吐いても無駄である。出来ないことをいっても仕方がない。

稽古場物語 《44部屋収録! 相撲稽古場図解》錣山部屋の稽古場には山本五十六の「男の修行」が掲げてある。「苦しいこともあるだろう云々」のアレである。自分はできなかったから掲示したと寺尾はいう。

危急の際に倫理を全うできないにしても想定の数パーセントくらいは実現できるかもしれない。危機に際して動物になってしまうであろう自分に、ビッグマウスの余燼を届けられるかもしれない。そうであれば、むしろビッグマウスは奨励される。口がでかいほど危機には多くの倫理感が残存するはずだ。

仕事ができない人ほど大口を叩きかねない。出来る人も出来ない人も叙述の内容にそれほど差がないと仮定する。出来る人が出来る話をしても、出来ることだから大口と認識されないが、同じ叙述をできない人がやると大口と認識される。

しかし、実際には叙述に差があり、出来ない人は自分をより称揚する傾向があるとすれば、それはビッグマウスの余燼を不足に未来に届ける営みと見なせる。一種の鼓舞だと解せるだろう。



出来るだけ危機を避けるべきである。倫理を発動させねばならない場面に遭遇する可能性を減じるべきである。しかし、あえて火に飛び込みたい道徳の攻勢的気質がある。危急にしか倫理が要請されないのならば、倫理的人間になるためにあえて危機に飛び込む。あるいは人為的に危機を引き起こしてしまう。

これなどは、死を恐れる人が死を恐れるあまり、自死に走る心理に準じるものだろう。死んでしまえば死の恐怖から逃れられるのである。