『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)

男は美女の媚びに感応できなかった。去勢された男の諦念が彼を不能にしている。自分は彼女の器ではない。自身の去勢感を男はそう表現する。たとえ一緒になったとしてもやがて経済力の壁が二人の間に立ちはだかるだろう。娘は甲斐性のない男に醒めるであろう。男の課題は明白である。去勢感を克服できなければ前に進めない。恋ひとつまともに出来はしない。女との関係を経済的に捕捉するように、男は社会的栄達によって去勢感は克服できると信じている。そのためにこの村にやってきたのだ。しかし去勢こそ栄達の条件であった。軍門に下らなければ栄達は約束されないのである。男はジレンマに陥った。栄達が去勢感を解消するどころか、かえって亢進させてしまう。


破滅の美学 (ちくま文庫)去勢は不可逆の事態である。アンコ役を経験した受刑者は出所して男に戻ろうにも多くは不能となってしまう。男を上げる以外に去勢感を克服する手段はなく、彼らは抗争になれば真っ先に散華していく。男はセント・ジョージ岬の生き残りであった。玉砕という究極の去勢の現場で彼は男を見失った。


戦場に端を発する去勢のプロセスにはそもそも選択の余地がなく、その不可逆の過程は徹底されている。戦友の危急に際した兵士が去勢から免れるためには、弾幕に飛び込んで死の危険を冒すしかない。死は一瞬の出来事だが去勢の烙印は終生残る。これを恐れ多くの人が危険を顧みなくなる。死を引き換えにしなければ去勢を免れない点で選択の余地がない。選択に際した時点で敗北が確定している。個々人の尽力で顛末を左右できない以上、去勢は社会的なプロセスである。しかしこのままならなさは福音でもある。社会に由来するのならば社会的な対応が可能なはずだ。


新幹線大爆破』(1975)のベースにあるのは新約的な原罪感である。沖縄から集団就職で上京してきた青年の一身に物語の不幸が集約される。不運が青年自身とそれに関わる人々を次々と見舞う。唯物論者の山本圭はこの原罪感に憤りひかり109号に爆弾を仕掛け不幸を人々に広く負託させる。去勢が社会的産物ならば社会的に分担して希釈できるのだ。


セント・ジョージ岬から帰ってきた男は、去勢を克服するために最終的には社会を発見しなければならない。結界から放たれようとする狂骨たちに際した男が見せた清算主義的態度には、新約的原罪感を排し社会的負託で事態に応えようとする発想が窺える。しかし男が社会を意識すれば社会はかえって遠のいていく。座敷牢で子どもの未来を案じる件は文脈から浮いている。事態はゲゲ郎の新約的犠牲で対応されたように見える。が、救出された男は慟哭するのだ。自分は何も覚えていない。ただ悲しいだけだと。


社会はどこにあるのか。それは人々の無意識にある。爆弾を仕掛けた山本圭に青年の不幸体質を社会に負託させようとする意識はない。観念論では人は動かないだろう。カルヴィニストは産業資本主義をもたらすために信仰をおこなったのではない。そうであれば資本主義は誕生しないだろう。


男はゲゲ郎夫婦の成れの果てと再会する。記憶を失った彼はゲゲ郎たちの姿に恐れをなし逃げ出してしまう。しかし彼は夫婦のもとに戻らずにはいられない。墓場から這い出てきた鬼太郎を殺められない。記憶がないにもかかわらず正解に至る行動が生じる。むしろ記憶がないからこそ正しい行動に誘導される。これが社会と呼ばれる現象である。ゲゲ郎の原罪的行動は社会現象の介在により息子に引き継がれ全うされたのだ。